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松沢裕作『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』 2018年9月30日

「(明治時代の社会では、)「かんばればかならず成功する」という「通俗道徳」の考え方がひろまっていました。「成功するためにはがんばらなければならない」からといって、「がんばれば必ず成功する」とは限らないので、「がんばったのに失敗した」あるいは「がんばったのに貧困から抜け出せない」人びとが膨大に発生します。しかし、そうした人びとはがんばりが足りなかったとみなされ、「ダメ人間」のレッテルが貼られてゆきます。

・・・明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。そして、「がんばれば成功する」という通俗道徳の罠に、簡単にはまってしまうと言うことです。それを信じる以外に、未来に希望が持てなくなってしまうからです。

・・・「通俗道徳のわな」は、どこかで悪い人が作って仕掛けた罠でもありません。不安な人々が、不安だからこそ、ついつい頑張ると言う選択を積み重ねた結果、自分たちで、自分達の作った仕組みにとらわれているのです。

「通俗道徳のわな」が、リアルな罠ではなく、人間が自分で作って、自分ではまり込んだ仕組みに過ぎないこと―そのことに気がつくことは、それ自体がわなから逃れるための、欠かせない一一歩です。」

中高地歴部の盟友松沢裕作さんの新著『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書、2018年9月20日第一刷発行)、名著です。

ぜひ『野外劇 三文オペラ』を見る前に読んでいただきたい一冊。(新幹線が止まったおかげで、東海道線のなかで一気に読めました。)

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日本における「演劇」というフレームワークについて 2018年7月28日

日本における「演劇」というフレームワークについて

(「舞台芸術」のフレームワーク問題についてのメモ)

日本において「演劇/theatre」をコロニアルなフレームだと考えるのは、厳密には正確ではないかもしれない。このフレームワークを取り入れた時代、日本はむしろ積極的に「列強」に肩を並べ、植民地を持つ側に歩みを進めていた。のちには植民地の住民がこのフレームワークを取り入れる契機を作ることともなった。(この意味で「コロニアルな」フレームワークではあった。)

そして能や歌舞伎が「演劇」と見なされたことで、このフレームワークがコロニアルなものと見なされる契機はほぼ失われた。これは日本の「演劇」界でポストコロニアリズムが定着しなかった理由の一つでもあるだろう。

だが、それによって「伝統演劇」と「現代演劇」との間に連続性を形成することには必ずしも成功していない。旧植民地が「先進国」を追い越そうとする今日の世界で「演劇」という日本語のフレームワークについて考えるには、もう一度、自分がどこにいるのか、どちらに歩みを進めようとしているのかを見つめ直す必要がある。 

東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』を見て。

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「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~ 2018年7月24日

「舞台芸術」のフレームワーク問題について ~2030年代に向けて~

(ON-PAM政策提言調査室での国際交流をめぐる議論のためのメモ)

「舞台芸術」のフレームワーク問題、というのは、たとえば22世紀に、今私たちがやっていることが語られる枠組みは何なのだろうか、といった問題です。それは「演劇史」ではないかも知れないし、もしかすると「舞台芸術史」でもないかも知れません。

というと、ずいぶん先のことだと思うかも知れませんが、私はこれから2030年代までが、この先どんなフレームワークが世界的なものになっていくかを決定づける重要な時期だと考えています。

「演劇」という概念にそろそろ賞味期限が来ているのではないか、と思っている人は少なくないと思います。今我々が使っている演劇という概念は、基本的には明治時代に西洋のtheatre/Theater/théâtre・・・といった概念の輸入語として使われるようになったものであり、そのもとをたどれば、16世紀から19世紀に西ヨーロッパで形成されてきた概念です。

西ヨーロッパの近代において、演劇theatre、ダンスdance、オペラoperaという3つのジャンルが、それを上演する仕組みと、そのための人材養成の仕組みとともに、制度として形成されてきました。この西欧近代における演劇の定義は、ジャンル規定は、歌と踊りの排除を基準としている以上、他の地域、他の時代の舞台芸術には必ずしも当てはまりません。この話劇としての近代演劇の起源として、いわゆる「演劇史theatre history」なるものが書かれるようになり、そこに古代ギリシアにあったtragoidia, comoidiaといったジャンル(これらのジャンルはtheatronと呼ばれてはいませんでした)や16世紀以前のpassionmystère(「受難劇」、「聖史劇」などと訳されます)といったものが、改めてtheatreとして語られるようになりました。

そして20世紀の後半になって、ようやくこの演劇やダンスといった分類、制度そのものを見直そうという動きが出てくる中で、今我々が語っている「舞台芸術英:performing arts / 仏:arts du spectacle」という言葉が使われるようになってきたわけです。でもこの言葉も、本当に適切な、あるいは有効な言葉なのかどうかは、もう数十年吟味してみる必要があるでしょう。

そもそも、この言葉に対応する西洋語については、英語とフランス語で、だいぶ語義が違っています(他の西洋語についてはよく知りませんが)。

英語の方には、とりわけ1970年代以降にはパフォーマンス・スタディーズ(パフォーマンス学)の影響があります。そして、この「パフォーマンスperformance」という概念は、「舞台芸術」という概念に代わり得る概念でもあります。

1980年代以降、演劇やダンスといった概念自体を見直そうという動きの中で、少なくとも西洋において、この2つの概念は、いわば競合関係にありました。

この2つの概念の大きな違いは、舞台芸術という概念は近代西欧において形成された「芸術art」という概念、そしてその芸術のうちの「ジャンル」という概念(そしてモダニズムにおけるジャンルの固有性・純粋性という概念)をある程度温存する志向を持っているのに対して、リチャード・シェクナーが提唱した「パフォーマンス」という概念は、むしろそれを解体する志向を持っていました。

ヨーロッパにおいては、「舞台芸術」に対応するarts du spectacleといった言葉が、オペラ・演劇・ダンスだけでなく、サーカスやストリートアートまでを含むものとして使われるようになり、さらに各ジャンルが拡張されて、また「複合領域的なもの」をも包含しうるものとして使われるようになりました。「パフォーマンス」という概念が非英語圏ヨーロッパにおいて普及しなかった理由としては、近代的「舞台芸術」各ジャンルが制度として強固に確立していたことだけでなく、performanceという言葉が英語特有のもので、他の西洋語に対応する言葉が見出しにくいという事情もありました。ヨーロッパで「タンツテアター」や「ポストドラマ演劇」のような言葉が流行したのには、ヨーロッパにおいては既存の「ダンス」「演劇」といったジャンルを拡張する方が(少なくとも短期的には)現実的だからでもあります。

ですが、個人的には、「舞台芸術arts du spectacle」よりもシェクナーがアジアやアフリカなどその他の地域の実践、さらにはスポーツや政治、日常生活における「パフォーマンス」にまで目を向けたうえで作り上げた「パフォーマンス」という概念のほうが、長い目で見れば有効性があるように思っています(そう思って、一昨年シェクナーの授業を受けにアメリカに行ったのでした)。

でも、この概念がアメリカにおいてすら十分に制度的に普及しなかった理由の一つは、ニューヨーク大学にパフォーマンス・スタディーズ科ができた1980年以降、アメリカがむしろ内向的になっていってしまい、60年代~70年代の第三世界主義的動きが退潮していった事があります。結果として、アメリカにおいても、「パフォーマンス」という言葉の便利さを生かしつつも、旧来の制度を解体することなく活用できる「パフォーミング・アーツperforming arts」と言う概念の方が、より実践的とみなされて使われるようになっていきました。

では「パフォーマンス」の方にはもう未来がないのかというと、そんなこともなさそうです。シェクナーに学んだWilliam Huizhu Sunは中国に戻り、上海戯劇学院でパフォーマンススタディーズを教え、他の大学にも広がりつつあります。パフォーマンススタディーズは中国語で「表演学」あるいは「人類表演学」と訳されています。この「表演」という表現は、中国語圏ではperformanceの訳語として普及していて、「表演芸術中心(performing arts center)」といった劇場名も見られます。

日本語では、近年芸団協が「実演芸術」という言葉を使っていて、文化行政においてはときどき微妙な選択になっていますね。ここでは「音楽」を含むか否かも問題になっています。

今私たちが行っていることが、一〇〇年後の22世紀にどのような概念、どのような枠組みで記述されるようになるのかは、今から2030年代にかけて、中国・インド・インドネシアにおいてどの言葉が使われるようになるのかにもかかっています。たとえば、テアトル・ガラシのUgoran Prasadは今、劇作家レンドラを中心に語られてきたインドネシア「演劇史theatre history」を、コンテンポラリーダンスの「振付家」と見なされているサルドノ・クスモを中心に書き直そうとしています。これはtheatre/Teaterという概念をインドネシアの実践に適合させていく動きと考えられます。22世紀に使われる概念は、英語やフランス語を基準にした言葉ではなく、「戯劇」や「戯曲」といった中国語の概念が基準になる可能性もあります。この際、もちろん歌舞伎・能・狂言・文楽を「演劇」という語で語ることで独自の「演劇」概念を形成してきた明治以来の日本の経験も一定の役割を果たしうると思いますが、今はこれを世界の他の地域の人々と議論し、共有する機会があまり持てていないように思われます。

今から2030年代にかけての決定的な時期に、私たち日本語話者が、世界の「舞台芸術界」の新たな枠組み形成において役割を果たせるか否かは、ここでの議論にもかかっているのだと思います。

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特異点が集まるところ/オリヴィエ・ピィ、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳) 2018年7月18日

「金融界、財界、政界にとっては、メッセージは一つしかない。「この道しかない」。「この道しかない」というのが、私たちの時代の合い言葉で、政治上のプラグマティズムの定義そのものでもあるようだ。この道しかない。経済成長のみがより良い生活をもたらす。富の再分配がなされないのは必要悪だ。ビジョンといえるものを提示できるのは経済だけで、文字/文学(les lettres)は数字によって完全に置き換えられる。「この道しかない」という主張には、証拠の暴力性と数量の残酷さがある。2008年の恐るべき金融危機のあと、規制緩和、租税回避、労働の民営化、そして常軌を逸した金融投機がかつてないほどに再開され、往々にして中央銀行や政府までがそれに加担している。

いくら考えてみても、市場経済の他には道はない。市場経済自体による定式化のなかで「他の道」を考えなければならないのだとすれば。

政治権力が金融権力に徐々に置き換えられていく過程は、つねに不可避のものとして進行する。神授王権と同じように必然的なものとして。だが、世界の未来を決めている一握りの大富豪にとってこの不可避性がいかに有用なものだとしても、私たちはこれに満足しているわけにはいかない。

今度は私たちがこのように言う番だ。「文化と教育、この道しかない」と。それがもう何度も言われてきたことだとしても。聞く者のいないところで、何度も何度も叫ばれてきたことだとしても、少数者が、それに耳を傾けてくれる別の少数者に向かって語っていることだとしても。問題を、もう一つの欲望の光の下で考察してみる他に、道はない。

違う。芸術はネオリベラリストに心の慰めを提供したり、課税軽減分を精神的なもので補ったり、私たち自身の無力さと優雅で贅沢な調停をするためにあるわけではない。芸術とはまさに、何もかもが不可能であるかのように見えるとき、そして支配者たちが自分たちの権力を確かなものにするためにこの不可能性を標榜するときに、可能性の扉を開いておいてくれるものなのだ。

リベラルな世界の問題を解決するのは、もっとリベラルな世界だけだ、という論法にも、他に道はある。視点を変え、視野をより高みに移し、私たちの勝利ではなく、来たるべき世代の勝利のために闘いはじめなければならない。「歴史」は信じられなくても、まだ未来を信じることはできる人々に、明晰な見通しという絶望を乗り越えて、鮮烈さという希望へと導いてくれるのは芸術なのだ。

だが時として、私たちはなんと孤独になり、途方にくれ、気力を失ってしまうものだろうか!エネルギーに満ち、精神性をもったあの変化の力、所有よりも知識を、略奪よりも驚嘆を、無駄なテクノロジーを購入することよりも他者との出会いを欲望させる変化の力は、どうやって見いだせばよいのか。意味だけでなく地球をも破壊してしまう生活様式とは異なる道は、その力から生まれるはずだ。

長い間、人は一人では世界の暴力を転覆することはできない、と考えてきた。様々な闘争を収斂させて、反抗する群衆を作り出す政治的組織のみが世界を変えることができる、と考えてきた。だが、新世代は寄せ集めの集団よりも特異点(singularité)を信じている。特異点とは物理学者たちがブラックホールの全能の中心に与えている名だ。そこで発生する未知のエネルギーは、時間を止めるほどの強さをもつ。これは芸術というものの完璧な定義といっていいだろう。時間をねじ曲げ、不幸の連鎖を止めてしまうほどのポジティヴなエネルギーが集中する特異点。それは時間を越えた表象/上演(représentation)の神秘のなかで到来するものだ。共同体が意味の中心へと収斂すると同時に、政治上のあらゆる他の道が開ける。だからこそ舞台芸術は一つの超越なのだ。超越だというのは、それが私たちに単一の神の力を崇めることを要求するからではなく、集団のなかには特異点の集積があり、それが調和しさえすれば、本当に時の流れを変えることができるからだ。集団はそれ自体超越であり、客席の暗闇のなかでその沈黙を聞くことで、私たちは集団の経験を更新することができるのだ。

私たちは希望をもっている。政治は私たちの未来を、経済的必然性や金融の薄暗い神々に委ねてしまわないようなものに変化しうるのだ。来たるべき世代たちが可能性への陶酔をもちつづけることができるように、私たちは、別のものを欲望することを学びつつある。」

特異点が集まるところ(Singularités)/オリヴィエ・ピィ(劇作家・演出家、アヴィニョン演劇祭芸術監督)、アヴィニョン演劇祭2018(第72回)によせて(試訳)

原文:以下でダウンロードできるProgramme completやGuide du spectateurなどの巻頭に掲載。
http://www.festival-avignon.com/fr/telechargements

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能はなぜ「演劇」か? (「舞台芸術」のフレームワーク問題についてのメモ)

先日、能はなぜ「演劇」とみなされるようになったか、という話を聞いた。
6/13の日仏ギリシアローマ学会で、「能の地謡は古代ギリシャ悲劇の「コロス」と比較可能か? 」と題されたマクシム・ピエールさん(パリ第7大学、ローマ演劇)の講演。
https://www.mfjtokyo.or.jp/events/co-sponsored/20180613.html

マクシムさんによれば、初めて能を観たヨーロッパ人の多くは、「あの叫び声はチャイニーズオペラと似ている」等、中国と結びつけて記述していた。ところが明治時代に東京帝大教師のチェンバレンが「能はギリシア悲劇に似ている」と言い出して以降、その比較が外国人知識人の間で流通していき、野上豊一郎など日本人研究者もそれに倣うようになった、という話らしい。お雇い外国人が自分の雇い主に箔をつけようと、中国などと差異化しようとした、という意図もあったのかも知れない。

(cf. 能に関するチェンバレンの記述の試訳・原文英語)
「結果は古代ギリシア悲劇に驚くほど似たものだった。三単一の法則は、一度も理論化されることはなかったとはいえ、実践においては厳密に守られている。そこには同じ合唱隊がいて、同じ態度の俳優がいて、往々にして仮面をかぶっており、屋外で座っているのも同じで、全てを同じ宗教的ともいえる雰囲気が貫いている。」
Collected works of Basil Hall Chamberlain, vol. 6, Synapse ― Ganesha Publishing, Tokyo-Bristol, 2000, p. 341-342

(チェンバレン以前の記述については、以下の最近フランスで出た研究にもとづいている。Jean-Jacques Tschudin, L’éblouissement d’un regard. Découverte et réceptions occidentales du théâtre japonais de la fin du Moyen Âge à la seconde guerre mondiale, Toulouse, Anacharsis, 2014)

つまり、まず古代ギリシア悲劇が近代のtheatreの起源として遡行的にtheatreとされ、さらに能がそれに「似ている」としてtheatre と見なされて、theatre 概念が拡張されていったことになる(もちろん、これは「能は演劇だ」という言説が成立した一要素であって、他の要因もあるだろうが)。
最近能の研究をしているマクシムさん(在日フランス大使館文化部で働いていたこともあり)の発表の趣旨は「ギリシア悲劇のコロスと能の地謡は(共通点を指摘する研究者は多いが)演劇的機能をかなり異にしている」という内容。「能は能だ、theatreではない(Noh theatre is no theatre)」というのがオチ。
歴史的背景の異なる実践をまとめてジャンル分けすることには、政治的文脈などの恣意的な要素もかなり影響してくる。日本でつくられた舞台芸術がこれからどのような形で世界的に評価されるかは、どんなフレームワークが形成されていくかにも関わってくるだろう。

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リサーチ「東南アジア舞台芸術における同時代性と伝統文化」フィリピン篇・インドネシア篇活動報告書 2017年6月27日

お知らせしそびれていましたが、アジアセンターのフェローシップをいただいて2016年2月に行ったリサーチ「東南アジア舞台芸術における同時代性と伝統文化」のうち、フィリピン篇とインドネシア篇の活動報告書が以下で読めるようになっています。(マレーシア篇はなお鋭意編集中です・・・。)ご興味のある方はぜひ。写真もあります。
リサーチ「東南アジア舞台芸術における同時代性と伝統文化」フィリピン篇・インドネシア篇活動報告書 へのコメントはまだありません
カテゴリー: アジアの舞台芸術

島村抱月演出、松井須磨子主演『故郷』上演禁止の経緯 2017年4月24日

島村抱月訳・演出、松井須磨子主演『故郷』(ズーダーマン作)明治45年(1912年)の上演禁止について。

筋:「オペラ歌手として成功したマグダが故郷に帰ると、かつて自分と子どもを捨てた男が現れて結婚を迫ってくる。マグダの父親は、名誉のために娘に結婚か死を選ぶよう命じるが、マグダがそれを拒否したとき、父親はショックのために死ぬ」。

兵藤裕巳『演じられた近代』202頁から。

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カテゴリー: 文化政策

「人文学は役に立ちますか?」への回答

樫田さん、大変遅くなって申し訳ありません。こちらのアジア演劇の話をしていて、「人文学は役に立ちますか?」という、一昨年樫田さんから頂いた質問を思い出しました。そのときはちょっとためらいがあって、結局うまく答えられませんでした。

私が人文学という概念についてためらいを持っているのは、それが奴隷制の論理、植民地主義の論理と関わりを持っていたからです。このように過去形でいうのが正確なのか、という点でもためらいがあります。

キケロは「人文知」あるいは「人間的教養」(humanitas)というものを、「自由人にふさわしい様々な高尚な学術」と定義しています(『弁論家について』1-68〜73)。そしてアリストテレスによれば、自由人とは「他人のためではなく自らのために生きる人」のことです(『形而上学』982b25-29)。

そこには、理性を持って自分自身をよく支配することができる者と、そうでない者との区別があります。そして、後者は自分自身をよく支配できないが故に、前者の支配下に入る必要がある、ということになっています。古代ギリシアにおいてもローマにおいても、たとえば軍事技術は、自由人であるために、最も重要な技術/学術の一つとみなされていました。一方で、歌や踊りをなりわいとすることは、他者の欲望を満たすために生きることであり、最も卑俗ななりわいの一つとみなされていました。

この論理は、自由人と奴隷を区別する論理であると同時に、理性をもつ人間と、理性を持たないその他の生物と区別する論理でもあります。このキケロの定義に基づく近代の「人文主義教育(éducation humaniste)」が植民地主義と産業革命の時代を準備したのは偶然ではないでしょう。そして今なおこの論理は、自らを支配できる者とそうでない者とを区別し、ヒトが別のヒトから、あるいは別の生き物から搾取する構造を正当化するものになっています。

これまでの人文学がこのことに無自覚だったとは言いませんが、この「人文学」というもの自体を基礎づけている論理を十分に問うてきたとも思えません。そして実をいえば、ここでいう「人文学」あるいは「人文知」というものには、いわゆる「自然科学」の大きな部分も含まれるとも考えられます。いかにしてこの意味での「人文知」というものの外部を見出せるか、いかにして人間というものを再定義していけるか、ということは、私たちに課せられた課題なのだと思います。もちろんそのためには、人文学というもの自体を深く見つめる必要があることも確かでしょう。また、西洋で作られた学問以外にも、何かヒントがあるのかも知れません。

なんだか煮え切らない話で恐縮ですが、最近こんなことを考えている、というくらいの話です。また大学院の話も聞かせてくださいね。

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カテゴリー: 文化政策

アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について 2017年4月4日

  1. 3. 12 (日)   第八回D/J(Dramaturg/Japan)カフェ議事録 (記録:岸本佳子さん/横山加筆)

 

アジア演劇を「世界演劇」に接続することの困難について

 

SPAC-静岡県舞台芸術センターの仕事では、創作に関わることは多くない。クロード・レジ、ダニエル・ジャンヌトーなどフランスの演出家と一緒に仕事をすることはあったが。主に海外招聘、とりわけふじのくに⇄せかい演劇祭のプログラムを組む、という仕事をしている。そのなかで、ここ数年抱えていた疑問があったので、ACC(Asian Cultural Council)に応募して、2016年9月〜2017年2月までニューヨークに滞在して、リサーチをしていた。その疑問というのは、アジアの作品をプログラムに入れるのはなぜ難しいのか、ということ。

 

・なぜニューヨークか アジア演劇とパフォーマンス・スタディーズ

 

どうしてニューヨークに行きたかったのか。たとえばシンガポール国際芸術祭の芸術監督をしている演出家のオン・ケンセンと話していて、「ニューヨークのユダヤ人からバリ島の演劇のことを教えてもらったんだ」という話を聞いたことがあった。シンガポールからバリ島はすぐ近くなのに、なんでわざわざニューヨークを経由しなければいけなかったのか。

 

オン・ケンセンは1993年〜1994年にACCのグラントを獲得して、NYU(ニューヨーク大学)パフォーマンス・スタディーズ科修士課程に在籍し、リチャード・シェクナーからバリ島の演劇のことなどを学んだ。この当時、アジアの舞台芸術について学べるところは他にあまりなかったということだろう。マニラのCCP(Cultural Center of the Philippines)の芸術監督クリス・ミリヤード(Chris Milliado)にお目にかかったときにも、その1年後か2年後に、もACCのグラントでNYUのパフォーマンス・スタディーズ科に留学した、という話を聞いた。

 

つまり、東南アジアの重要な演劇人はNYで勉強しているんだ、と思った。フランスに留学していたが、東南アジアの演劇人にはほとんど会ったことがなかった。

 

たしかに、ヨーロッパで演劇学を学んでも、アジアの演劇の文脈には必ずしも結びつかない。ヨーロッパで作られた「演劇」という概念自体が、必ずしもアジアに当てはまらない。

 

NYUのパフォーマンス・スタディーズ科を立ち上げたリチャード・シェクナーは演出家でもあって、ウースター・グループの前身であるパフォーマンス・グループを主宰していた。シェクナー自身が、ACC財団ができた初期の頃にグラントを取ってアジアに行っていた。

 

シェクナーによれば、ACCを作ったジョン・D・ロックフェラー三世が “ディオニュソス69” (1968年)を観て、シェクナーに「アジアに行きたいか?」と聞いてきた。行きたいです、と答えたら、来年以降、どこでも好きな所に行ってください、と。それで1970年以降、インド、 スリランカ、インドネシア、中国、台湾、日本など、何年かかけて回った。それが一つのきっかけとなって、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカも含め、そしていわゆる演劇だけでなく儀礼やスポーツ、日常生活のルールまでも含めて、それまでの「演劇」の枠組みを拡張する試みを“Performance Studies”として立ち上げた。

 

ヨーロッパ人とアメリカ人の「歴史的自己認識」の違い

  • フランスでは、自分のルーツを遡るとギリシアやローマ人に行き着くと、なんとなく思い込んでいるところがある。地理的にも遠くない。一方アメリカ人はギリシアやローマにそこまで親近性を感じてはいない。アメリカから見れば、アテネやローマも、東京や北京と似たようなものではないか。

 

→ ヨーロッパではあまり「アジア人」が演劇界で活躍している感じはなかった。でも、ニューヨークではそうではないのでは?と思っていた。行って見たら、そうでもなかった。

 

・西洋演劇を基準にした「世界演劇」にアジア演劇を接続するのはなぜ困難なのか?

 

<レジュメHow to integrate the Asian theatre to the “World Theatre”?を参照>

 

それが困難なのは、そもそも西洋演劇自体に、アジアをアンチモデルとして成立してきた、という事情があるからではないか。

 

・近代演技論の成立と弁論術

 

  1. 歌と踊りのない演劇形態が確立したのはいつ頃か?
  2. フランスではフランスオペラを確立したジャン=バティスト・リュリの音楽アカデミーが1672年に音楽上演の独占勅許を獲得。一定以上の音楽を使ったパフォーマンスはリュリの許可なくして上演できなくなる。それまでは音楽劇が盛んに上演されていて、台詞中心の劇よりもその方がお客さんが入っていた。モリエールやコルネイユもそれにかかわっていた。だがこれによって、いわゆる「古典劇」の作家たちは、台詞劇に専念せざるを得なくなってしまう。

 

『演技論』が書かれ始めたのはこの少し後の時代から。

→ 演技論研究はごく最近発展してきた。2001年にサビーヌ・シャウーシュの『演技論七篇 雄弁術から演技論へ』(Sabine Chaouche (éd.), SEPT TRAITES SUR LE JEU DU COMEDIEN ET AUTRES TEXTES. De l’action oratoire à l’art dramatique (1657-1750), Honoré Champion, collection Sources classiques, 2001)という本が出て、これで国立図書館に行かないと読めなかった17世紀〜18世紀の演技論に関する本が自宅でも読めるようになった(すごく高いけど)。

 

  1. 16世紀〜18世紀のヨーロッパの中等教育(コレギウムでの教育)で、最も重要な科目だったのは?
  2. Rhetorica、弁論術(「修辞学」とも訳される)が最も重要な科目だった。

 

  1. 当時のコレギウムで一番読まれていた作家は?
  2. キケロ。古代ローマの政治家・弁護士(「雄弁家orator」)で、弁論術の理論家でもあった。言葉によって人を動かす術としての弁論術。当時の教育は基本的にラテン語なので、ラテン語でそのまま読んでいた。

 

この時代のフランスの教育では、毎日のようにキケロなどが書いた古代ローマ弁論術の本を読まされていた。

その中に、歌ったり踊ったりしてはダメ、と書いてある。議会とか裁判所とかでどうやって演説するか、という話なので、ある意味当たり前なんだけど。

 

当時の俳優論、演技論は、実はローマ弁論術をほとんどコピペしている。たとえばモリエールはもともと弁護士になるはずだったが、俳優兼劇作家になってしまう。そういう人、つまり教育を受けた俳優というのが出てきたから、ローマ弁論術をベースにした演技論が発生してきた。

 

でも不思議なのは、近代の俳優が、古代ローマの俳優ではなく、古代ローマの弁論家をモデルにしたこと。

 

たとえば、ジャン・ポワソンという18世紀フランスの俳優は、『公開の場で話す術についての考察』(Jean Poisson, Réflexions sur l’art de parler en public, 1717 (Chaouche, p. 407))という本で、クインティリアヌス『弁論家の教育』(Quintilian, Institutio oratoria, I, 11, 3)のこんな一節を引用している。

 

「身ぶりは舞台俳優から遠ざかるようにすること(Gestus aberit a scenico)」

 

この1文は、本来は弁論家=政治家や弁護士になろうとする人に向けて書かれたもの。だけど、ここではそれが俳優にも適用されるかのように引用されている。つまり、近代俳優は古代ローマの俳優のように過剰な身ぶりをしてはならない、ということになる。

=古代の弁論家が近代の演技術のモデル

 

・人文主義教育と俳優の社会的地位

 

「自由学芸Liberal Arts」とは何か?

「自由人」のための技術。

自由人=奴隷ではない人。

古代ローマにおいては自由人のトップが弁論家、政治家。もっとも自由ではない人間の一つが俳優。俳優の身分は多くの場合、奴隷や解放奴隷だった。古代ローマでは俳優には市民権がなかった。騎士でも、舞台に立ったら騎士の身分を剥奪された。

古代ローマにおいて、俳優と売春婦は同じカテゴリーだった。

「自分の身体を他人の快楽のために提供する人」というカテゴリー

 

こういう事情が背景にあって、弁論家をモデルにする、ということになった

 

近代になって、演劇をもう少し、貴族などにも見せられるものにしよう、となった時に、俳優という職業の社会的地位を多少引き上げなければ、という話にもなってくる。

俳優=身体ではなく、俳優=言葉だ、という転換。

実際革命前のフランスでは、俳優にはほぼ市民権がなかった。

 

「人文学Human Science / Humanities」とは何か?

人文主義教育(éducation humaniste)の中で、教育を受けた俳優が出てくる。ここでいうhumain (human)というのも、「(奴隷ではない)人間、自由人」という意味。キケロがいう「人間的教養(人文学)Humanitas (Humanities)」というのは、自由学芸と同様に、「自由人であるために学んでおくべきこと」。つまり、教育を受けた俳優とは、奴隷ではない俳優。

 

なぜフランスだったのか?

フランスでは17世紀くらいから、モリエールみたいに、教育を受けた俳優、というのが出てくる。とりわけフランスで弁論術の影響が強かったのは、16世紀のパリのコレギウムで、「パリ方式modus parisiensis」と呼ばれる人文主義教育のシステムが確立されたから。ルネサンスを経て、古代ギリシア・ローマの学問を復活させようとしたのが人文主義教育。実際には、ギリシア語ができる人は少なくて、ラテン語が共通語なので、古代ローマの学問、なかでもローマ人にとって一番大事だった弁論術が重要になっていく。

 

フランスでは一七世紀終わりくらいから、演技術のことをdéclamationと呼ぶようになった。日本語では「朗誦法」などと訳されたりするが、これは「言葉を語るのが演技」という発想から。

実はこの言葉のもとになったラテン語declamatioは「虚構の設定にもとづいたスピーチ(弁論)」という意味。

学校教育の中などで、弁論の演習として、今実際に起きていることではなくて、たとえばトロイア戦争とかをもとにスピーチをしてみること。

 

当時の高等教育の中では、このデクラマティオが最終地点、最後に学ぶことだった。当時の演劇人が「デクラマティオを学んだ」というのは、コレギウムでちゃんと最終課程まで勉強した、というくらいの意味でもある。

 

このデクラマティオの枠組みで、学生にローマ喜劇や、ラテン語で書かれた喜劇・悲劇を上演させたりもした。ローマ喜劇は「活きた(会話に適した)ラテン語」を学べる数少ない教材でもあった。

 

だから、フランスの近代俳優は、新たな演技術、近代演技術のことを「デクラマシヨン」という妙な言葉で呼ぶようになった。(当時のエリートにとって最も重要な学問である)弁論術教育を受けた俳優の演技、というくらいの意味。「本当は弁護士とかにもなれたけど、あえて俳優になったんだ」というようなアピールでもある。

 

・なぜ西洋近代劇にとってアジアはアンチモデルとなったのか?

 

キケロの弁論術書などで、「アジアの弁論家は歌うように話す」という逸話がある。これを近代弁論術では「アジア風(asianismus)」などと呼んだりする。

 

なぜアジア人は歌う(ということになっている)のか?

まずはイメージとして。

ギリシア悲劇で一番盛り上がるのは、ペルシャ人、トロイア人、といった「アジア」の女性が泣きながら歌うところ(cf. マダム・バタフライ、ミス・サイゴン etc)。

アジア人が最終的にはギリシア人に負けてしまうのは、真の言語、論理的言語(ロゴス)をマスターしていないから。

戦争に負けた結果、アジア人は奴隷となって、自らの境遇を嘆く。奴隷というのは、自分で自分の人生を導く能力がないために、自らの身体を他人に提供することで活かされている存在。ロゴスをマスターした者が、そうでない者を支配し、導く責任を負っている、というのが奴隷制の理屈。

 

キケロが語っているのは、アジア(小アジア、今のトルコ)の弁論家は、悲劇俳優が歌うような口調で嘆き、お涙頂戴の弁論で説得しようとする、というような話。このときにキケロが思い浮かべているのは、セネカの『トロイアの女』(『弁論家』27, 57)。

 

アジアの弁論家が歌で人を説得しようとするのは、アジア人はロゴスをマスターしていないから、ということ。つまり、歌と踊りのないヨーロッパの近代演劇は、このような「アジア人=奴隷(≒古代ローマの俳優)」を、いわばアンチモデルとして成立してきた。

 

こんな文脈を知ってみると、アジアの舞台芸術をヨーロッパ演劇史に接続することの難しさが見えてくる。西洋思想史のなかで、歌い踊る身体は、往々にして奴隷的身体とみられてきた。歌や踊りの訓練をすることは、他人の快楽に奉仕するために身体を変形させることと見なされた。一方、戦闘のための訓練は「自由人」にふさわしいものと見なされた。

 

19世紀以降、西洋演劇はアジア演劇の影響を受け、それが20世紀の「演出家の時代」にも影響を与えているとも言われるが、アジア的要素をスパイス以上のものとして使っている西洋の演劇を探すのは困難かも。フロランス・デュポンの『アリストテレス、西洋演劇のヴァンパイア』(Florence Dupont, Aristote ou le vampire du théâtre occidental, Paris, Aubier, 2007)によれば、いわゆる「演出の演劇」も、結局のところ演出さえもテクストと見なすようになったに過ぎないという。つまり、よく言われる「身体性」というのも、往々にして結局のところテクスト概念の拡張に過ぎないかも知れないということ。

 

Cf. 小山内薫による新劇の創出

その頃は、俳優といえば歌舞伎俳優。稽古場で小山内薫が「歌うな、話せ」「踊るな、動け」と叫んだという逸話。日本人も頑張って、歌わない、踊らない演劇をしようとすることで、演劇を「近代化」しようとしてきた。

 

果たして我々は「身体性」というものに、ふたたび正当な価値を与えうるのか?この問題は演劇において「アジア的なもの」とどう付き合っていくのか、という問題ともかかわってくる。

 

世界経済の重心が欧米からアジアに移行する時代が数十年以内に来るらしい。2030年くらいという話もある。だとすると、あと十数年。舞台芸術に関する価値観については、まだその準備ができていない。「アジア」という(西洋の視点から作られた)枠組みを実体化するのもよくないだろうが、少なくとも欧米中心ではない価値観や枠組みを、今からおおいそぎで作っていく必要があるのでは。

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(8) 卓越性から多様性へ 2017年3月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.6.卓越性から多様性へ

1960年代後半から1970年代にかけて、米国がベトナム戦争から撤退していく時代に、卓越性から多様性へ、そして国際的地位の確立から国内問題への対処へと、米国の文化政策の目的がラディカルに転換していった。ここで「文化政策」というのは、とりわけ米国の場合、連邦政府による施策だけを指すのではない。州や地方自治体、そしてそれらによって設置された公的財団の役割も大きいし、それ以上に民間の非営利財団が主導する部分が大きい。

この転換を象徴的に示すのが、マクジョージ・バンディのケースだった。若くして頭角を現した政治学者バンディは、ケネディによって国家安全保障担当の大統領補佐官に指名され、ベトナム戦争の政策責任者となった。ところが戦線は泥沼化し、ケネディは暗殺される。バンディは共和党と民主党双方からの批判の的となって、1966年に辞任。フォード財団の事務局長に転身した。

国内ではベトナム戦争と並行して、公民権運動が盛り上がりを見せていた。ジョンソン大統領は人種差別の撤廃を目指した公民権法を1964年に成立させ、さらに選挙権登録における差別をなくす投票権法に1965年8月6日に署名。だが直後の8月11日からカリフォルニア州ワッツ市で負傷者1000人以上に及ぶ大規模な人種暴動が発生する。実質的な人種差別の解消が進まないのを見て、バンディは黒人アーティストや黒人ゲットーにおける文化活動の支援を財団の中核事業にしようと考えた。

はじめは多様性と卓越性を両立させようとし、「卓越した」黒人アーティストの支援を中心にしようとしていた。だがゲットーへの対応が社会的優先課題として浮上していくなかで、卓越性よりも多様性を重視する方向に大きく舵を切っていく。つまり、「卓越性から多様性へ」という方向転換は、ベトナム戦争からゲットーへ、という政治的優先課題の移行を背景としているのである。やはりフォード財団が重視したリージョナル・シアターの支援も、スラム化した都市中心部の再活性化という社会的課題と大きく関わっている。

バンディはそれまで支援していた国際事業や著名大学、著名芸術機関への支援を打ち切ってまで「多様性」を重視しようとしたため、「卓越性」を擁護しようとしたヘンリー・フォード二世をはじめ、何人もの財団理事が辞任した。それでもバンディは、1980年に辞職するまで、「まだ機会の平等は実現されていない」として、黒人、ヒスパニック、アジア系、ネイティヴアメリカンなどの「多様な」文化活動を重点的に支援しつづけた。ロックフェラー兄弟基金、ロックフェラー財団、カーネギー財団、メロン財団なども、1960年代後半から70年代にかけて同様の方針転換を行い、80年代以降はこれが中核事業となったケースが少なくない(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 512-518)。

これ以降、「文化の多様性」はあらゆる分野で目標とされるようになる。このもう一つの背景となったのは、1965年に採択された移民改革法だった。米国はヨーロッパ系の優遇をやめて出身国別の割り当てを撤廃し、あらゆる地域の出身者に門戸を開くこととなる。これによって、それまで減少傾向にあった移民の流入が急増していく。これによってヒスパニック系、アジア系、そしてアフリカ諸国出身の黒人が、70年代から80年代にかけて、徐々に存在感を増していったのである。

(つづく)

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