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テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (3)「トランプ後」における「人種」とアイデン 2017年1月4日

(3)「トランプ後」における「人種」とアイデンティティ

このように強固に「多様性」を促進する活動をつづけてきたNPN関係者のなかでは、当然「トランプ後」への懸念も大きい。あるオクラホマ州の劇場の芸術監督は、「うちの理事会では、卓越性という名目のもとに、有名で「売れる」アーティストへの活動に支援を集中させようという動きがある。これからは、共同体に根ざした活動やマイノリティのアーティストの活動の支援がさらに難しくなるのではないか」と話していた。

この劇場の理事会の構成においては、地域コミュニティの人種・ジェンダーバランスを反映する配慮がなされているという。逆に「あなたの劇場には韓国系や中国系の理事はいますか?」と聞かれ、ちょっと考えされられた。

米国の国勢調査では、「人種(race)」や「祖先の民族(ancestry)」について答える項目がある(いずれも自己認識にもとづく)。これがあるから、「(人口構成と比較して)十分に表象されていない(underrepresented)」という言い回しがよく使われるわけだ。日本でこれが難しいのは、まず、国家のなりたち自体が異なるからだ。

アメリカ大陸の国家の多くはヨーロッパの「本国人(スペイン人、ポルトガル人、英国人)」に対して、(主にヨーロッパ系移民の子孫である)植民地生まれの「アメリカ人」が独立した、という形で作られてきた。近代以降において先住民族が主導して国家を作ったという例はない(最近ボリビアなどで先住民族が政治的な主導権を取り戻している例はあるが)。だから、米国の国籍法においては出生地主義(米国内で生まれれば米国国籍が得られる)を基本としていて、民族を問うことは国籍/市民権の正当性とは(原則的には)関係がない。

(とはいえ、大統領選挙中にトランプの有力支持者の一人が、活動的なテログループがあるイスラム諸国からの移民を登録する仕組みを作ると発言し、第二次大戦中の日本人収容を前例として挙げており、トランプ大統領就任後の対応が注目されている。)

http://www.nytimes.com/2016/11/18/us/politics/japanese-internment-muslim-registry.html

大統領選挙直前に上演されていたメキシコ出身のアーティストによる体験型演劇『ドゥモクラシー(Doomocracy、「破滅doom」と「民主主義democracy」のかけことば)』では、観客は車に乗せられ、会場に到着したところで国境警備隊に包囲され、一人一人「お前はアメリカ生まれか?」と尋問される場面があった。この国で市民権を持っているか否かについて、最も決定的な意味をもつのは出生地なのである。

『ドゥモクラシー』劇評

http://www.nytimes.com/2016/10/14/arts/design/review-doomocracy-looms-at-fright-night-in-brooklyn.html

日本においては「民族」を基準とした公式の統計はない。だが、日本の国籍法は血統主義(日本人の父または母から生まれれば日本国籍が得られる)を基本としている。つまり、「日本人」を出生地よりむしろ血統によって規定しているわけで、この背景には民族国家としてのネイションという発想があるはずだ。だが、2008年にアイヌ先住民決議が国会で採択されて以降ですら、そもそも「日本人」を構成する主な民族が「何民族」なのか、についての公式見解すら形成されていない。1986年以降のいわゆる「単一民族発言」において、政治家たちが「大和民族」という言葉を避けてきたのは、そう口にした瞬間に、この国家のなりたちとその正統性をめぐる、かなりややこしい議論に巻き込まれるということを察していたからだろう。中曽根世代までは戦前の複合民族論もよく知っていたはずだ。

結果として、今の日本においては、多くの国民が「何民族」に属しているのかは明確に認識しないまま、「主流にしてほぼ単一の民族に属している」という意識をもつ、という不思議なことになっている。もう少し好意的な表現を使えば、ここ百数十年、とりわけここ数十年で「日本民族」ともいうべき意識が培われてきた、と言ってみることもできる。

Cf. 岡本雅享「日本人内部の民族意識と概念の混乱」2011

http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo19_2/1902_okamoto.pdf

このなかで、日本国民の一人一人に民族を問うことは、ここ数十年、根本的な問いかけが避けられてきた暗黙の前提を問い直すことになりかねない。また、これから他国籍の在住者や国際結婚の割合が年々増えるなかで、いかに移民や難民に門戸を閉ざそうとも、これらの「前提」がはらむ矛盾に苦しむ人々もこれからいよいよ増えていくだろう。そういった前提を、いかに人を傷つけることなく解きほぐしていけるか、というのも、「日本」と関わっていくアーティストが取り組んでいかざるをえない問いなのではないか。

日米のもう一つのちがいは、米国では、「人種的マイノリティ」と大まかに対応する「有色」という目に見える基準があることだ。良かれ悪しかれ、多くの場合、「白人」でない、ということは一目で分かる。(ただし「ヒスパニックあるいはラテン系」は「白人」と「有色」の二つのカテゴリーにまたがっている。)そしてこれがかつての社会構造のなかの階層とある程度対応するために、差別が生まれ、それに対抗する動きも生まれた。

日本の場合、たとえば日本の広告においてはいわゆる西洋系のモデルが使われている比率が人口比に対して明らかに多いので、「日本民族/アジア系が十分に表象されていない」などと言ってみることも可能かも知れない。だが、他国から日本列島にやってくる人々の大多数は東アジアの出身で、「日本人」と外見で明確に区別されるわけではなく、表象の比率について統計を取るのも容易ではない。

米国に来たばかりのときには、この「白人」/「有色人」といった言葉を日常的に聞くことに、けっこう驚いた。以前住んでいたフランスでは今日、「民族」はともかく、「人種」という言葉が使われることは滅多にない。これにはパリを本部とするユネスコの「人種と人種的偏見に関する声明」(1967)の影響もあるのかも知れない。

それでも米国では「人種」なり「白人」/「黒人」/「有色人」なりという言葉を使わざるを得ないのは、「民族」ではあまりに多様すぎるからだろう。ヨーロッパの感覚からすれば、イギリス系、アイルランド系、フランス系、ドイツ系、ギリシャ系、ポーランド系、ユダヤ系・・・をすべて「白人」でまとめるのは奇妙に思えるが、それらがそれぞれにアイデンティティを主張しているだけでは、十分な政治的勢力にはなりにくい。さらに「黒人」はといえば、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられてから何世代も経ている人々が大多数で、多くの場合にはすでに祖先の出自も言語も宗教も分からなくなっている。

一方、フランスでこの種の言葉が使われないのにはもう一つ理由がある。フランスは革命以来、人種・民族による差別を、「区別を設けない」という方法で排除しようとしてきた。たとえば、フランスにおいては法律で民族や宗教を基準とした統計を取ることが禁じられている。

Cf. “Quatre questions sur les statistiques ethniques”, Le Monde

http://www.lemonde.fr/les-decodeurs/article/2015/05/06/quatre-questions-sur-les-statistiques-ethniques_4628874_4355770.html

だからといって、フランスで就職などで出身による差別がないわけではない。イスラム系やアフリカ系の名前で履歴書を出すと、そうでない場合よりも返事が来る可能性がずっと低い、といった実験結果もある。だが、そもそも人種・民族別に統計を取ることができないので、アファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)が採られることもない。フランスの演劇界においては、これまで国立劇場や国立演劇センターの芸術監督に「有色」のアーティストが就任した例は(「有色」の人々が多数を占める海外領土を除けば)まずなかった(その意味で今年ワジディ・ムアワッドがコリーヌ国立劇場の芸術監督に就任したのは意義深い)。

一方米国では、公民権運動やゲイリベレーション運動で、「マイノリティ」が団結することで政治的な発言権を得る、という動きが重要になった。フランスの「反共同体主義」は、このような動きを徹底的に排除するものでもある。米国は「差別」を徹底的に顕在化させることで解決しようとし、フランスは逆に徹底的に不可視化することで解決しようとしてきた。どちらにしても、メリットだけでなく弊害も出てきている。

アファーマティヴ・アクションとしての文化表象政策の問題の一つは、人口比を超えること、つまり特定のコミュニティを大きく超えることが想定されにくいことだろう。そうなった瞬間、それはむしろ「過剰な表象(overrepresentation)」となってしまう。

たとえば以下の記事によれば、2014年のハリウッド映画に出演した俳優のうち、白人が73.1%、黒人12.5%、アジア系5.3%で、マイノリティの出演は今なお圧倒的に少ない、という論調になっている。だが、同年の米国の人口統計によれば、白人72%、アフリカンアメリカン13%、アジア系5%で、偶然とは思えないほど数字が一致している。

http://www.pbs.org/newshour/rundown/30000-hollywood-film-characters-heres-many-werent-white/

以下の記事によれば、ハリウッドのプロデューサーたちもかなりこの割合を意識しているようだ。

http://deadline.com/2015/03/tv-pilots-ethnic-casting-trend-backlash-1201386511/

いずれにしても、少なくとも数字だけを見るのであれば(「どう表象されているか」は別として)、アジア系は全体の5%表象されていれば「十分」だ、といういい方もできる。

そして、「普遍的価値があるから」ではなく、「特定のコミュニティの価値観が十分に反映されていないから」表象すべき、という論理は、普遍性を目指すことなく、特定のコミュニティにしか向けられていない表象を擁護するものともなりうる。

今の米国の状況を見ていると、「アイデンティティ」という概念が社会を寸断し、政治的な袋小路へと導いているようにも見える。米国の多文化主義の文脈において、アイデンティティを尊重する、という表現がよく使われてきた。近年はこれが逆転させられ、「危機に瀕しているヨーロッパ系白人のアイデンティティを守ろう」という話も出てきている。

重要なトランプ支持イデオローグの一人、リチャード・B・スペンサーが提唱する「アイデンティタリアニズム」は、レイシズムやナショナリズムの言説をある程度回避しつつ、「文化的アイデンティティ」の尊重を訴える。(このアイデンティタリアニズムはヨーロッパ政治においても重要な言説形態になりつつあり、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線もこれに近い路線を取っている。)白人による民族国家の建設を主張するスペンサーは、来日時に「日本は国民国家なので多様性の問題が無く平和で素晴らしい」と語っていたという。

スペンサーに関する記事

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/20-17.php

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/12/alt-right_n_13578834.html

最近「有色の人々(People of Color)」あるいは”BME”(Black and Minority Ethnic)、”BAME”(Black, Asian and Minority Ethnic)の代わりに、ときに”PGM”(People of the Global Majority、世界的多数派)という表現も使われるという。たしかにアフリカ系・アジア系を含む「有色人種」は世界的には「白人」よりも多い。トランプ支持者のなかには、白人がマジョリティではなくなっていく状況への危機感もある。少なくとも「人種」という側面で見れば、「マイノリティ/マジョリティ」という二項対立自体が政治的機能を変容させつつある。

「アイデンティティ」には、「人種/民族」と並んで、「セクシュアル・オリエンテーション(性的指向)/ジェンダー・アイデンティティ(性別の自己認識)」(Sexual Orientation and Gender Identity, SOGIと略されたりもする)が重要な要素として取り上げられる。NPN/VPNの会合で使われる名札には、自分に使ってほしい「性別人称代名詞(gender pronoun)」を書く欄がある。ここでは「性別に中立な代名詞(たとえばhe/sheの代わりにtheyなど、この場合theyは意味的には単数になる)」を使う方も少なくない。

英語における「性別に中立な人称代名詞」の使い方について

http://rindalog.blogspot.com/2015/05/gender-neutral-pronoun.html

https://uwm.edu/lgbtrc/support/gender-pronouns/

Themの使用を求めるアーティストill Weaver

https://emergencemedia.org/blogs/news/80985604-they-statement-of-nonconformity

この二つの「アイデンティティ」がクローズアップされるようになったのには、1960年代以降の黒人公民権運動とゲイリベレーション運動が大きかったわけだが、結果的として、人種とセクシュアリティによってカテゴリーが縦横に寸断されることにもなる。「アイデンティティ/自己同一性」とは、自己をあるカテゴリーに属するものとして規定することで、多数者と分断しつつ、限定された接点を形成するものだ。

だが、「自己」がたまたま既成のカテゴリーと一致することはありえない。そもそも、自己があるカテゴリーに属するということは、ある虚構を受け入れることに他ならない。自分は「日本人」だ、とみなすときにも、「日本人」という実体があるわけではなく、文脈によってさまざまに規定されうる分断のあり方を受け入れているに過ぎない。また「同性愛者/異性愛者」だ、とみなしたとしても、それは「同性」あるいは「異性」というカテゴリーに属するあらゆる人を愛することを意味するわけではないし、愛することができるのは未来永劫そのカテゴリーに属する人のみだ、ということが保証されるわけでもない。そこでなされるのはむしろ、同じカテゴリーに属する他の人々との連帯の表明であろう。

だから、「アイデンティティ(自己同一性)」よりもむしろ「アイデンティフィケーション(自己同一化)」について語るべきだろう。実際になされるのは自らを既存のカテゴリーと一致させようとする過程であり、「アイデンティティ」を一致がすでに存在している静的状態とみなしてしまえば、実態を見誤ることになる。

冒頭で長々とテキサスとメキシコの歴史に触れたのもそのためだ。「自己同一化」は自己をなんとかして固定された一点に係留しようとするが、歴史はつねに動いている。ネイションへの「自己同一化」は、過去の忘却と現在に含まれている未来の否認によってしか達成されない。

近年の米国の舞台芸術はアイデンティティ・ポリティクスと深く結びついてきた。表象の操作をめぐって長年手と手を携えてきた近代芸術と近代政治はアイデンティティという概念と相性がいい。人間を「アイデンティティ」という観点から見ることは、その断面の一つを拡大して見ることであり、それは舞台芸術の機能の一つでもある。そして、それを名付け、カテゴリー化し、連帯を形成することで、政治的な力も発生しうる。そこで「表象の過小(underrepresentation)」を「拡大された表象(overrepresentation)」へと転換する可能性も備えている。だが、政治が発明したカテゴリーを追認しているに過ぎない場合もある。そろそろ、芸術は政治に引きずられるのではなく、政治より一歩先に歩みを進めなければならないのではないか。

ダムタイプの故古橋悌二さん(ACCグランティーでもあった)が、こんな話をしていた。

「人間は「個人」なんだから、第一のアイデンティティにセクシュアリティをわざわざもってくることはないと思う。セクシュアリティとかは付随してるもんだから、レズビアンでもゲイでも、それが自分のアイデンティティだっていうふうに、盾をつくっちゃうんじゃなくて、それだとどんどん人間の壁をつくっていくだけだから。まず個人というのがあって、それに付随しているなかのひとつに、レズビアンとかゲイとか、職業とか、背が高い、とかがくる。だから、まず、個人の、ひとりの人間の身体というのを考えた方がいいかな。レズビアンとかゲイとかいっても、それは自分がつけた意味じゃなくて、社会がつけた意味でしょう。だからそういうのにとらわれているのは損。」

http://cloverbooks.hatenablog.com/entry/2015/05/30/190659

古橋さんは、性的指向にもとづくアイデンティティは分断のためではなく接点の一つとして使うべきだ、と考えていたのではないか。自分の一日の生活を思い浮かべてみれば、そのなかで人種・民族やセクシュアリティが他の人々との接点あるいは分断面となっている機会は限られていることに気づくだろう。接点となっているのはむしろ仕事かも知れないし、趣味かも知れないし、住んでいる地域や家族関係かも知れない。もちろん人は限られた仕事をし、限られた趣味を実践し、限られた地域に住み、限られた家族・友人関係を生きているのだが、それは必ずしも人を分断しているわけではない。分断が生じるのは、そこに対立的で相互排除的なカテゴリーが導入されるときだ。

NPN/VANを含め、多くの非営利芸術組織の長年の活動が実り、米国の舞台芸術における人種や性的指向による表象格差はある程度是正されつつある(当事者にとってはまだ十分とは思えないだろうが)。だが一方で、これらのカテゴリーに属さない社会的問題に焦点が当たりにくくなっているようにも見える。たとえば近年では経済格差や雇用の問題が直接扱われる作品はそれほど多くないが、人種や性的指向とは別に、そういった問題を焦点にして連帯を形成することも可能だし、ある程度必要だろう。(一、二世代前の社会主義的運動としての演劇への反動もあるのだろうが。一方で今年は工場労働者に焦点を当てた『汗(Sweat)』のヒットがあり、ブロードウェイでの上演が決まったという。)だが、それ以上に重要なのは、排除を条件としない連帯のあり方を見出すことではないだろうか。

リン・ノテージ『汗』

http://publictheater.org/en/Tickets/Calendar/PlayDetailsCollection/16-17/Sweat/

フランスの普遍主義においては、理念的にはそれができているはずなのだが、逆にそれが個別の次元で起きている差別を不可視化している部分もある。ここ数十年で米国が培ってきた「アイデンティティ」へのほとんど微視的な視線は、それとは異なる、より個別の差異に寄りそった普遍主義を生み出す可能性を持っているのかも知れない。

参加した最後のイベントとなったワークショップがなかなか面白かった。「有色のアーティストと周縁化されたアーティストのためのナショナル・チェックイン」という題名で、説明を読んだだけでは何をするのか想像もつかなかったが、「トランプ後に有色のアーティストが経験した傷を癒やそう」という話らしい。

現在「有色の」アーティストたちが置かれている状況についてディスカッションをしたあと、目を閉じて、ファシリテーターの声を聞きながら歩いてみる。「自分のホームだと思うところに向かって歩いてみてください。そこでは、あなたにとって大事な人が待っています」「そこから、なるべく遠くまで、旅に出てみてください」「行き着いたところ、そこを新たなホームだと思ってみてください」「一人ぼっちでさびしかったでしょう。気がつけばあちこちから人が来て、町ができてきています。近くの、一緒に町をつくる仲間たちを手で触れて、感じてみてください」「町にはまだまだ人がやってきます。一人ずつ手をつないで、そこにいるみんなとつながってみてください」・・・。

参加者たちはこれを一万二千年前のことだと思っただろうか。それとも、もっと最近のことだと思ったのだろうか。

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カテゴリー: ACC NPN

テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (2)NPN/VANの国際的ミッションと米国の未来 2017年1月2日

2016/12/27

NPN/VANはアメリカ国内の70の組織が参加するクローズド・ネットワーク。日本やヨーロッパでは「ナショナル」というと政府関連の機関のように思ってしまいがちだが、米国においては「政府は文化芸術に口を出さない」という原則があるので、「全国規模の」というような意味だと思えばわかりやすいのだろう。

だが、それ以上に、米国においては、そもそも国家というものは国民一人一人のイニシアティヴで作っていくものだ、という了解がある。その意味では、これも「国立」という言葉の意味と重なるところはある。NPN/VANも、参加/メンバー団体がボトムアップのイニシアティヴで作ってきた組織だ。日本のJCDN(Japan Contemporary Dance Network)は、NPNでインターンをした経験がおありの佐東範一さんが、これをモデルにして作られたという。

1985年にNPN/VANが作られた最大の目的はアーティストの国内ツアー/モビリティを促進すること。米国はあまりにも大きく、「国内」ツアーにしても、たとえばニューヨークからフェニックスまでは6時間のフライトになるし、ニューヨークから比較的近いワシントンDCやボストンでも、飛行機に乗らずに行こうと思うとかなり時間がかかる。

今回この会合に参加してみて気づいたのは、ニューヨークでは他の州で作られた作品を見る機会がきわめて限られているということだ。カリフォルニアなど西海岸の作品どころか、東海岸の他の都市の作品ですらそれほど上演されていない。ニューヨークでは、場合によってはカリフォルニアの作品を呼ぶよりも、ヨーロッパの作品を呼ぶ方が、助成金なども考慮すると安くつく場合すらあるという。

NPNは全米組織としてニューオリンズにある本部が大型の助成金を定期的に獲得しメンバーに配分することで、ツアーを組みやすくしている。また、レジデンシーツアー(ツアーの際には各地に一週間滞在して教育プログラムなども行うようにする)、定額報酬制など、プレゼンターとアーティストが密接かつ対等の関係を築くためのきめ細かい仕組みが作られてきた。

メンバーとなっている「パートナー組織」が助成金を確実に使えるように、固定メンバー制を採っている。パートナー組織は地域、文化背景、運営規模などのバランスを考慮して選ばれていて、ニューヨーク州からは70団体中、Performance Space 122など5団体。50州のなかでは比較的多いともいえるが、ニューヨークから来ると、圧倒的多数のそれ以外の地域の人々と一度に出会えるのは得がたい機会だった。

パートナー組織となるには、地域バランスだけでなく、NPNの理念も共有しなければならない。理念として真っ先に上げられているのが「社会的・人種的公平性(Social and racial justice)」。人種的・性的マイノリティが芸術分野において十分に表象されていない現状を変えていく、というのが、設立以来の理念となっている。

発足準備の会合をしたときに、その場に集まったのが白人ばかりだったのを見て、​アフリカ系、アジア系、ネイティブ・アメリカン、ラテン系などの団体にも声をかけ、孤立しがちな地方で活動するマイノリティのアーティストを支援することも活動に含めるようになった。

NPNの会合では、人種的・性的マイノリティ差別を排除するためのガイドラインが設けられている。米国に永住していないアジア人として参加してみて、多くの方が議論や会話に参加できるように促してくれるのがありがたかった。

NPN/VANは2016年度、226のプロジェクトに対して180万ドルを助成(マッチングファンドによるレバレッジ効果370万ドル)、30万人の観客・参加者に作品等を提供。

助成対象となった1,000人のうち62%は「有色のアーティスト(artists of color)」だったという。

さらに文化的多様性を促進するために、ラテンアメリカ・カリブ海とアジアに関しては、双方向の国際交流プログラムを実施している。それぞれ「パフォーミング・アメリカス・プログラム(PAP)」、「アジア・エクスチェンジ」と名づけられている。前者はすでに15年前から実施されていて、24人のラテンアメリカ・カリブ海のアーティストを米国で、同じく24人の米国のアーティストをラテンアメリカ・カリブ海でツアーを実施してきた。

後者は2010年にはじまり、韓国のKAMS(Korea Arts Management Services)、日本のJCDN、ON-PAM、アーツNPOリンクをパートナーとし、国際交流基金、日米友好基金、KAMSの支援を受けて、日韓のアーティストの米国ツアー二回、米国のアーティストの日本における滞在制作を三回行ってきた。

今年は関かおりさんがシカゴで滞在制作を行っている。「アジア・エクスチェンジ」をめぐるセッションではKyoto Experimentの橋本裕介さん、Dance Boxの岩本順平さん(横堀ふみさんが原稿を執筆なさったという)が東アジア・東南アジアの舞台芸術状況に関する紹介もあった。それぞれ、アジアのアーティストたちとのこれまでの共同作業の実績を踏まえ、明確なヴィジョンを提示するもので、質疑応答も活発だった。

これらのプロジェクトには、ラテン系・アジア系のバックグラウンドをもつ米国在住のプロデューサーやアーティストがもつ知見やネットワークを活用する、という意図もある。「パフォーミング・アメリカス・プログラム(PAP)」はマイアミ在住でキューバ系のエリザベス・ダウドさんがコーディネーターとして活躍していて、後者についてはカリフォルニアを拠点とする吉田恭子さんの存在が大きい。(今回私に声をかけてくださったのも、ON-PAM会員でもある吉田さんだった。)

オースティンという町は、今や第二のシリコンバレーとも言われ、急速な発展を遂げている。あるセッションでは、オースティンをモデルとして、ジェントリフィケーションによって、古くから街に住んでいた有色人種(ヒスパニック系とアフリカ系が多い)の貧困層が中心部から立ち退きを余儀なくされていく、という問題をどう解決すべきかについて議論していた。

(参考)TEDxNewYork>貧困層が土地を追われ、よそ者が街を支配する… アメリカで注目を浴びる「ジェントリフィケーション問題」とは

http://logmi.jp/41962

オースティンのNPN/VANのメンバーたちは(自身がヒスパニック系の方も含め)、ここがかつてメキシコの一部だったことを強調していた。米墨戦争で獲得・確保されたテキサスからカリフォルニアに至る旧メキシコ北部に「ヒスパニック系(とりわけメキシコ系)」の住民が多いのは、歴史的にも地理的にも、それほど不思議なことではない(テキサス革命時にはすでにメキシコ系よりもアングロサクソン系の住民の方がずっと多かったわけだが)。問題は、移住者によって新たな共同体、新たな文化が創られていくときに、それまであった共同体/文化に対して十分に敬意を払えるか、ということだろう。

劇場などの文化施設は往々にしてこのジェントリフィケーションの原因の一つを作り(場合によってはまさにそれを目的の一つとして創設される場合も少なくない)、またそれによって恩恵を受けるものでもある。そのことにどこまで意識的になれるか。米国のプロデューサーやアーティストたちがこの問題を強く意識しているのは、人口密度と移動性のちがいもあって、日本よりもこのジェントリフィケーションが急激に進行するケースが多いせいなのかも知れない。

ただし、オースティン市全体のここ半世紀の人口動勢を見れば、白人・アフリカンアメリカンの割合が減少し、「ヒスパニックあるいはラテン系」とアジア系が増える傾向にある。つまり、もともとヒスパニック系の割合はそれなりに多かったが、近年になっていよいよ増えているわけで、その増加率は白人の増加率よりもずっと高い。

2010年の統計によれば、オースティン市の人種構成は、白人68%(非ヒスパニックの白人49%)、ヒスパニックあるいはラテン系35%(メキシコ系29%、キューバ系5%他)、アフリカンアメリカン8%、アジア系6%、アメリカン・インディアン1%。全米の最新統計(白人72%(非ヒスパニックの白人69%)、ヒスパニックあるいはラテン系13%、アフリカンアメリカン13%、アジア系5%、アメリカン・インディアン1%、2014年)に比べても、ヒスパニック系の多さが際立っている。

現在、いわゆる「マジョリティ=マイノリティ州(Majority-Minority States, 非ヒスパニック系白人以外の「マイノリティ」が多数派になっている州)」はカリフォルニア、ハワイ、ニューメキシコ、そしてテキサスの四州だが、2044年には全米で「非ヒスパニック系白人」がマジョリティではなくなるという予測が発表されている。2050年には米国内のヒスパニック系の人口は倍以上になるとの予測もある。

今回一番熱を帯びていたセッションの一つは、ツアー可能なラテンアメリカの作品を紹介するものだった。マイアミではスペイン語演劇の国際演劇祭も行われているという。キューバの対岸に位置するマイアミでは、スペイン語話者が人口の三分の二以上を占めている。米国のメンバーからもスペイン語で質問が発せられたりする。このオースティンでのNPN年次総会は米国の未来を先取りしているようにも見えた。

マイアミ国際ヒスパニック演劇祭(International Hispanic Theatre Festival of Miami/Festival Internacional de Teatro Hispanico de Miami)

http://www.arshtcenter.org/Tickets/Subscriptions/International-Hispanic-Theatre-Festival/XXIX-International-Hispanic-Theatre-Festival/

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カテゴリー: ACC NPN メキシコ 文化政策

テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (1)テキサスとメキシコ/テハスとメヒコ

2016/12/24

困窮した農民たちが新天地を夢見て、次々とメキシコ国境越えていく。アメリカ合衆国からメキシコ領テハス州へ。

・・・というのは1820年代から30年代の話。NPN/VAN(National Performance Network/Visual Artists Network、以下”NPN”と略す)年次総会にご招待いただき、12月2日にアリゾナ州フェニックスからテキサス州オースティンに。これもまた、ニューヨークでは見えていなかった「アメリカ」が垣間見えるいい機会になった。

地元オースティンの劇団プロジェクトテアトロ(ProyectoTeatro)の作品『不法移民たちのために(Por Los Majados / For the Wetbacks)』に寄せられたスタンディング・オベーションが、今回のNPN総会のトーンを集約していたように思える。

2014年に中央アメリカ諸国から何千人もの未成年者が不法移民として国境を越えてやってきた事件の背景を、米国のパナマ侵攻などラテンアメリカ諸国への度重なる介入に探る作品だが、何よりも実際にラテンアメリカ諸国出身の子どもや青年たちが「なぜ米国に来ざるを得なかったのか」を自分のこととして語るのには、心を打たれずにいられない。もちろん誰もがトランプの「壁を作る」発言を思い起こしつつ見ていたのだろう。だが同時に、これだけ強烈に米国の対外政策を批判する作品を、圧倒的多数のNPNメンバーが支持しているのが、ちょっと不思議でもあった。

https://www.fuseboxfestival.com/featured-pr…/por-los-mojados

オースティンはテキサス州の州都で、名前は「テキサス革命」の主導者スティーヴン・オースティンに由来する。1819年の恐慌により、米国の実業家でスペイン王国臣民でもあったスティーヴンの父モーゼス・オースティンは鉱山経営から撤退を余儀なくされ、テキサス(スペイン語の発音はテハス)での植民事業を計画した。1820年、モーゼスはスペイン王国のテハス州知事から公有地払い下げの許可をもらう。

だが翌年1821年にはモーゼス・オースティンが死去し、メキシコは独立。息子のスティーヴン・オースティンはこの事業を引き継ぎ、時々刻々と政情が変わるなか、メキシコ新政府との度重なる交渉を経て、メキシコ国籍を得て、アングロサクソン系の米国人たちをテキサスに入植させた。これには国防上の理由もあった。テキサスはあまりに人口密度が低く、まだアメリカ先住民の支配が及んでいる地域もあった。入植者にはスペイン語の使用とカソリックの信仰が義務づけられた。まもなくテキサスではアングロサクソン系の人口がメキシコ系の人口を圧倒するようになる。

米国南部からの移住者は奴隷を持ち込んでいたが、1829年にメキシコ政府は奴隷制を全面的に廃止した。1833年に大統領に就任したサンタ・アナによる圧政もあり、入植者たちは不満を募らせるようになる。スティーヴン・オースティンは入植者たちを率いてメキシコ軍への反乱を主導するに至る。やがてオースティンに代わり、サミュエル・ヒューストンが軍事司令官としてテキサス軍を率いてメキシコ軍に勝利し、1836年にテキサス共和国が誕生する。

オースティンやヒューストンによる「テキサス革命」は、はじめから十分な勝算があったものではないらしい。アングロサクソン系のテハス入植者たちによるメキシコ政府への反乱は、アメリカ合衆国からの義勇兵の加勢を得てもなお、メキシコ大統領サンタ・アナ将軍自ら率いる騎馬隊に当時の米墨国境近くにまで追い詰められつつあった。メキシコ軍は数でも経験でもテキサス軍に勝っていた。だが、連日の行軍で疲労困憊したメキシコ軍が休息を取っていたところに、ヒューストン将軍率いるテキサス軍が急襲し、混乱したメキシコ軍は潰走。

逃亡したサンタ・アナは翌日捕獲され、ワシントンDCまで連行されて、身の安全と引き替えにテキサス共和国の独立を承認させられることになる。だがそのときにはサンタ・アナは大統領を解任させられていて、メキシコ新政府はこれを認めなかった。これがやがて米墨戦争へと至る火種となっていく。もしサンタ・アナの失策がなければ、もしかしたらアメリカ合衆国がテキサスからカリフォルニアまで拡大することもなく、今もなおメキシコ北部でありつづけたのかも知れない。このオルタナティブな歴史を思い描いたことがあるメキシコ人は少なくないだろう。

このときのテキサス共和国には、コロラド州やニューメキシコ州の大半も含まれている。テキサス共和国初代大統領に就任したヒューストンはアメリカ合衆国への併合を進めようとしたが、合衆国側では、この併合に反対する議員が少なくなかった。その主な理由は、メキシコとの戦争が避けられなくなるという懸念と、新たに「奴隷州」が加入することで「自由州」とのバランスが崩れることだった。併合は独立から9年を経た1845年に、ようやく合衆国によって承認されたが、翌年に米墨戦争がはじまる。そして合衆国が米墨戦争に勝利した結果、メキシコ領カリフォルニアを含めさらに領土を拡大し、今度は「自由州」の拡大を懸念する南部奴隷州の連邦離脱によって1961年に南北戦争がはじまることになる。つまり、テキサス併合はまさに米国が今抱えている人種問題・地域格差問題・国境問題の火種になったともいえる。

テキサス州の人種構成は、2010年の統計によれば、白人70% (非ヒスパニックの白人45%)、黒人・アフリカンアメリカン12%、アジア人4%、アメリカン・インディアン1%弱。ちなみに今回の大統領選挙では、テキサス州全体ではドナルド・トランプが52%の得票で勝利したが、オースティンでは例外的に民主党支持の傾向があり、ヒラリー・クリントンが66%の得票を得ている。

今回の旅では、オースティンでのNPN総会の翌週がメキシコシティでの舞台芸術ミーティングENARTESで、このオースティンの歴史が導きの糸のようになっている気がした。NPNでもラテンアメリカ諸国との交流促進を担う多くのプロデューサーやアーティストに出会い、翌週ふたたびメキシコで出会った方も少なくない。

NPNについてはPerforming Arts Network Japanのサイトに以下の日本語記事がある。

NPNの紹介

http://www.performingarts.jp/J/society/0705/1.html

http://performingarts.jp/J/calendar/201612/s-01761.html

前NPN理事長兼CEO、MK・ウェグマン氏のインタビュー

http://performingarts.jp/J/pre_interview/1104/1.html

写真はアフリカンアメリカン文化を紹介するオースティンのGeorge Washington Carver Museum and Cultural Centerから。

(つづく・・・長くなったので、連載にします。)

テキサス州​オースティン、NPN年次総会と「アイデンティティ」 (1)テキサスとメキシコ/テハスとメヒコ へのコメントはまだありません
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ナバホ・ネイション一泊二日滞在記

2016/12/21

ナバホの国にちょっとお邪魔した話。

11月のはじめ、パリのケ・ブランリー美術館で『イナバとナバホの白兎』を見に来てくれたナバホ・フランス・アソシエーションの創立者で歌手のロレンザ・ガルシアさんに連絡してみたら、ちょうど今ナバホ・ネイションに来たところだという。慌ててスケジュールを調整して、月末に伺うことに。なかなかお互いの都合が合わず、ナバホ・ネイションには結局一泊二日の滞在になってしまった。急ぎ足で見聞きしたのは、ナバホの神話世界とはかけ離れたものばかりだが、思えば古事記を読んで今の日本を旅しても、似たようなことになるのかも知れない。

ニューヨークからアリゾナ州の州都フェニックスまで六時間弱のフライト。フェニックスからセドナまでバスで北に二時間弱。セドナはアメリカ先住民が古くから住みつき、聖地ともされたところだが、今では住民のほとんどは白人で、スピリチュアルなものを求めて世界中から多くの観光客がやってきている。セドナで一泊し、ロレンザさんに合流するはずだったが、突然の大雪でロレンザさんが足止めされ、結局セドナでもう一泊してからナバホの国に行くことに。セドナではAir B&Bのホストの方がツアーガイドもやっていらして、少し山歩きをすることができた。

セドナからフラグスタッフまで約二時間。山道の両側に雪が残っている。道々、運転してくれているロレンザさんの話をうかがう。なかなか不思議な人。パリ国立高等美術学校の絵画科を出て、映画会社などで働きながら、絵を描いたり、ストリートパフォーマンスのオーガナイズをしたりしていた。1996年にパリで砂を使った絵の個展を準備していた。ちょうどそのとき、同時にラ・ヴィレットで行われていたナバホ族文化に関する展覧会『美の道(La Voie de la beauté)』でメディシンマンたちによる砂絵や歌を使った儀礼の実演があったので行ってみた。

すばらしかったので、ずっと眺めていたら、ナバホ族のご婦人と目があって、ほほえみかけられ、会話がはじまった。いろいろ話していたら、体調が悪いと知り、病院に付き合ったりした。あとで聞くと、そのご婦人はずっと誰とも話さず、体調が悪いのは分かっていても世話もできない状態だったという。他のメンバーたちから「あなたは私たちの恩人だ。よかったら毎日来てください」と言われ、お別れ会にも呼ばれた。「いつかぜひ私たちの国にも来てください。こちらで見せることができたのは私たちの文化のほんの一部なので」とお誘いをいただいた。

実際にナバホ・ネイションに行ってみたら、「家族の一員」として歓迎を受け、9日間にわたる儀式に参加させてもらえた。そしてナバホ族の歌や儀礼を通じて「ホジョ(hózhó、美/調和)」を核とする思想に触れ、人生が変わったという。それ以来20年間、パリとアリゾナを往復して暮らしている。画家で歌手でエコ農業を推進する活動家、と聞くとちょっと不思議な感じがするが、ナバホ族の文化を通して見れば自然なことなのだろう。

ロレンザ・ガルシアさんインタビュー

https://www.youtube.com/watch?v=nVP4Mfge6vw

フラグスタッフはナバホ・ネイションに最も近い都市。ノースアリゾナ大学がある。人口五万人ほどで、そのうちアメリカ先住民の割合は1割ちょっと。ここで食料品を仕入れる。ロレンザさんはベジタリアンなので、たくさんの野菜と、豆腐など。セドナで出会ったガイドさんも「ナバホ・ネイションではなかなかいい野菜が手に入らないから、ここで食べておいた方がいい」とおっしゃっていた。

フラグスタッフから最初の目的地トゥバシティまで一時間。緑が目に見えて減ってゆき、赤茶けた地表があちこちに見えてくる。鉄分が多く含まれているため赤いのだという。火星のようともいわれる景色。

トゥバシティ(Tuba City)はナバホ・ネイション最大の町で、人口は約8,600人。ホピ・ネイションとの境界に位置し、ホピ族のリーダー、トゥービの名前に基づく。トゥービはモルモン教の宣教師に出会ってモルモン教に改宗し、モルモン教徒を招いて町を作った。今ではかつて19世紀末に白人が作った町の半分は放置され、建物もシロアリに食い散らかされて住めなくなっているという。現在の人口の97%以上はアメリカ先住民で、白人は0.2%にも満たない。

トゥバシティでは、ナバホ族のヘレンさんの一家にお世話になる。お昼頃にヘレンさんの家に着く。ヘレンさんのご主人は、地元では有名なメディシンマンだったが、つい数年前に心臓の持病により57歳の若さでなくなった。四軒の家を建て、今はうち二軒が借家として使われている。はじめはテントやホーガン(ナバホ族の伝統的住居)に泊まろうか、という話もあり、寝袋持参で行ったのだが、あまりにも寒い(フラグスタッフでは最低気温がマイナス10度以下だった)ということで、家を持っているヘレンさんにお世話になることになった。日が暮れないうちに帰れるように、ということで、茹でた白いトウモロコシを持って、すぐに出発。

そこからモニュメント・バレーまでの道のりはさらに一時間半。道々、今度は黒い地表に塩の結晶が見える。石炭の採掘が行われ、火力発電で作られた電気がラスベガスまで送られているのに、ナバホ・ネイションでは電気が通っていない家も少なくないという。途中フリーマーケットに寄る。お土産物、生活用品、手摘みの生薬やタバコ、羊の肉、おやつなど。トウモロコシパンがおいしかった。ナバホロックのバンド演奏も。

市街地を出ると、見渡す限りの地平線のなかに、人家は一つあるかどうかという感じ。トレーラーハウスも見かける。時に羊や馬の群れが見えるが、ここに住んでいる人たちが日々どんな生活をしているのか、なかなか想像がつかない。スクールバスはかなり遠くまで足を伸ばしてくれるらしい。長い間、北アメリカでは犬がほとんど唯一の家畜だった。ナバホ族はこの影一つない広大な荒野を、家財道具を背負って歩いていた。ナバホ族はやがてヨーロッパ人が連れてきた羊や馬を自ら飼い慣らすようになった。それが部族存続の大きな決め手となった。ジャレド・ダイアモンドによれば、「ナバホ族は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってきたときには、何百かいた部族の一つにすぎなかったが、彼らは、新しいものを柔軟に取り入れる気質だったため、現在では合衆国でもっとも人口が多いアメリカ先住民となっている」(『銃・病原菌・鉄』倉骨彰訳、草思社文庫、下巻81頁)。

ナバホ・ネイションの面積は71,000キロ平米で、北海道より一回り小さいくらい。北海道の人口約538万人に対して、ナバホ・ネイションは約173千人。人口密度は北海道64.5人/キロ平米に対して2.4人/キロ平米。北海道よりも30倍人口密度が低いわけだ。1864年、ナバホ族は480キロ離れた土地に徒歩で強制移住させられた(「ロングウォーク」)が、そこには十分な食糧も生産体制もなく、多くの犠牲者を出した末、四年後の1868年に、もともと住んでいた場所の一部を「ナバホ・インディアン居留地(reservation)」として指定することになった。

帰還したときにはすでにホピ族など他の部族が住んでいたりして、長く紛争がつづいている。設立当初から比べると大きく拡大し、今の領域は十以上の州よりも大きく、一部族の居留地としては最大だが、それでもナバホ族が主張してきた「四つの聖なる山」を境界とする「ディネタ(ディネの地)」の一部に過ぎない。1969年、ネイティヴアメリカン・アクティヴィズムの高まりもあり、「ナバホ・インディアン居留地」が一定の自治権・裁判権をもつ自治政府「ナバホ・ネイション」として組織されるに至る。

このナバホ・ネイションの一員と認められるには、少なくとも曽祖父母の一人(2004年までは祖父母の一人)がナバホ族あるいはディネ四支族(「ディネ」はナバホ族の自称)の一員であったことを示し、「サーティフィケイト・オブ・インディアン・ブラッド」をもらう必要がある。連邦政府の国籍法が出生地主義を採っているのに対して、ここは血統主義になっているのもちょっと面白い。ナバホ・ネイションで生まれたからといって、ナバホ・ネイションの一員になれるとは限らない。まさに「国民国家(Nation-state、民族=国家)」という形を取っているわけである。ナバホネイション全体では、住民の96%がナバホ族あるいはネイティヴアメリカンで、白人の割合は1.8%、アジア太平洋系は0.2%に過ぎない。

同化政策時代とは異なり、ナバホ語による教育もある程度行われるようになった。ナバホ族には子どもをもつことを誇りにする文化もあり、人口は着実に増えている。とはいえ部族語を維持するのはそう容易ではない。ナバホ・ネイションには主にナバホ語で教育を受けられる高校や部族文化などをより専門的に学ぶことができる「ディネ・カレッジ」もある。だが就職を考えると、ナバホ語・ナバホ文化に精通していることが有利な領域は相当限られている。ヘレンさんの息子は大学に進学せず、地域の高齢者ともつきあいがあったのでナバホ語がけっこうできるが、娘二人はノースアリゾナ大学などネイション外の大学に行ったため(ヘレンさんご自身も域外の大学で教育を受けられた)、ナバホ語を使う機会がなくなっている。ナバホ・ネイションの域外で暮らすナバホ族は、1980年代には20%程度だったが、今では半数を超している。娘の子どもたちは教育もメディア(主にテレビ)も英語なので、ほとんどナバホ語に接する機会がない。ナバホ語は発音が非常に難しく、孫たちに「馬」という単語一つをちゃんと発音できるようにするのに三日かかったという。第二次大戦中はこれを活かしてナバホ族の暗号部隊が組織された。暗号解読を得意とした日本軍にもナバホ族の「コードトーカー」によるやりとりは書き取ることすら困難で、対日戦で大きな貢献をした。一方、太平洋地域で従軍したナバホ族は顔立ちから時に日本兵と間違えられ、危うい目にあったこともあるという。

モニュメント・バレーは、全てがあまりにも巨大で、人を寄せ付けない地のようにも見えるが、ここは北米で最も古くから人が住みついてきた場所の一つだった。巨大な岩が雲を止めて雨や雪を呼び、谷底には水も流れる。日陰もできて、多くの岩窟もある。ここはナバホ族にとって、聖地であるだけでなく、生活の地でもあった。ロング・ウォークのあと、ナバホの人々は再びここに戻り、今でもここで羊を飼ったりして生活をつづけている。

日本とナバホ・ネイションをつなぐものの一つとして、ウランがある。モニュメント・バレーでは第二次大戦中からウランの採掘が行われ、原爆の製造にも使われていたという。ナバホ族は対日戦に「コードトーカー」と原爆という二つの切り札を提供したわけである。モニュメント・バレーをめぐる道もかつてウラン採掘のために作られた。トゥバシティも1950年代にはウランブームで栄えた。当初は防護服も与えられず、素手で鉱石を暑かったりしていて、その後多くのナバホ族の作業員に深刻な後遺症が出た。また、水の汚染も重大な問題となっている。ナバホ・ネイションでは水道が通っていない地域が多く、遠くまで水を汲みに行くか、安全性が確認されていない近くの水源を使うか、という選択を迫られている世帯も少なくない。この地域の除染に関する研究には日本の研究者も関わっていると聞いた。ナバホ・ネイションは2005年にウランの採掘を全面的に禁止した。

ウラン汚染問題と除染、水問題について

http://blogs.yahoo.co.jp/okerastage/9510716.html

http://www.npr.org/sections/health-shots/2016/04/10/473547227/for-the-navajo-nation-uranium-minings-deadly-legacy-lingers

https://www.epa.gov/navajo-nation-uranium-cleanup/cleaning-abandoned-uranium-mines

http://www.attn.com/stories/6416/water-contamination-navajo-nation-for-decades

石炭の採掘も近年までナバホ・ネイションの主要な産業だった。だが、石炭も最近では環境汚染の原因とされ、採掘量は減っているようだ。きわめて水資源が限られているナバホ・ネイションのなかで、石炭の採掘や火力発電に大量の地下水を使うことも問題となっている。ナバホ族のなかでも、「大地のエネルギーを奪うようなことをしていると、いずれ大地の怒りを買う」という声もある。2009年、ナバホ・ネイションは「グリーン・ジョブ・ポリシー」を採択した初めてのネイティヴアメリカンネイションとなった。

一方最近では、多くのネイティブアメリカンの居留地で、カジノが重要な産業になりつつある。ナバホ・ネイションにもいくつかのカジノがある。とはいえ、大都市からかなり離れているので、ラスベガスのように多くの人がやってくる事は想像しにくい。カジノの収益の一部は「グリーン・エコノミー」の支援に当てられている。

経済指標から見れば、この地域では非常に高い失業率と貧困が大きな問題となっている。そもそもこれだけ人口密度が低く、海からも河からも大都市からも遠く、交通の便が悪く水資源が極端に少ないところで、あえて工場を作ろうなどという企業はまずない。つまりどう考えてもこの地域は工業の発展には向いてないわけだ。逆にいえば、そういう地域を先住民の居留地として指定したわけでもある。ナバホ族は極度に水の少ない地域に適応した生活形態を発展させてきた。草木の根に水を求め、小さなホーガンに焼け石を入れてスウェット・ロッジにしたりする。

ナバホ・ネイションではノースダコタ州でのパイプライン建設をめぐるスタンディング・ロック・スー族の抵抗運動も話題になっていた。石油パイプラインはもともとノースダコタの州都ビスマーク周辺を経由するはずだったが、計画が見直され、ミズーリ川のスー族居留地が水源としている地点の直前を経由するルートに変更された。建設を推進する会社側は「リスクはない」と言いつづけるが、スー族の有志などが建設に反対し、建設予定地にテントを張って非暴力抵抗運動をつづけていた。スー族は1851年に締結された(そして幾度も違反が重ねられてきた)フォート・ララミー条約を、自らの居留地に対する権利主張の根拠の一つとしている。ナバホ族を含む多くの先住民たちがこれに連帯を表明し、支援している。ナバホ・フランス・アソシエーションも現地に代表を派遣して支援を表明した。

サンクスギビングデイ(11/24)には、マイナス5度のなか、警察が放水や催涙ガス、ゴム弾により座り込み排除を試み、多くの負傷者が出た。そして11/28には「悪天候が予想されるため」として、州知事による即時退去命令が出ている。その翌日から、この運動家たちを守る「人間の盾」となるために、2,000人以上の退役軍人が駆けつけ、一触即発の状況がつづいていた。(12月5日に強制排除、という話だったが、その後オースティンでのナショナル・パフォーマンス・ネットワーク年次会合最終日の12月4日、主催者側から「ホワイトハウスの決定によりパイプライン建設計画の見直しが決まり、強制排除は取り消された」というニュースが発表されて、参加者たちが歓呼の声を上げていた。その後12月9日には、長年に渡る先住民抑圧に謝罪する退役軍人たちにスー族が赦しを与える儀式が行われた。)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/14/dakota-pipeline-protest_n_12975788.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/24/dakota-pipeline-protest_n_13197362.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/25/standing-rock_n_13241772.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/05/dakota-access-pipeline_n_13422492.html

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/09/standing-rock_n_13528818.html

http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#270

夜はなぜかみんなで『マッドマックス/サンダードーム』を見ることに。核戦争後、オーストラリアの都市文明が崩壊して荒野になっている話。ちょっとナバホの地を思わせる光景もあり、北米の未来を考えさせられる。トゥバシティでは衛星放送が普及している。というか、衛星放送以外の電波が入らないところがナバホ・ネイションには多いらしい。

翌朝、野菜と豆腐のオムレツを大量に作ってブランチ。ロレンザさんたちとナバホ・ネイション立病院の無料のジムに行って汗を流す。ナバホ・ネイションに限らず、「インディアン居留地」では肥満も大きな問題になっている。かつてはトウモロコシと野生のタマネギ、そして高タンパク低脂肪のバッファローの肉といったあたりが主な食材だったが、農業に不適な「居留地」に押し込められ、バッファローは絶滅させられて生鮮食料が手に入りにくくなり、代わりに連邦政府から小麦粉、バター、砂糖、粉乳などが与えられたために、高カロリーの食材に依存するようになっていった。同化政策のために寄宿学校に入れられた子どもが伝統食から切り離されたのも一因とされる。ナバホ・フランス・アソシエーションは、ナバホ・ネイションで古いナバホ族の知恵を活用しつつエコ農業を進めるプロジェクトを支援し、この地でも新鮮な食糧が手に入る環境を作ろうとしている。

http://www.navajo-france.com/fr/projets.php#269

長年の間、寒冷地の人口は水や食糧だけでなく、地域で供給可能な燃料にも依存してきた。だが、今この地域で化石燃料を使わずに生きようと思うと、かなり大変だ。この地域では薪ストーブが普及していて、ヘレンさんの家でも使われていたが、薪になるような木が生える一番近いところは、車で二時間ほどかかるグランド・キャニオン。この冬も、家族で薪を集めてきたという。グランド・キャニオンを経由してセドナまで送ってもらうことに。地平線の先は岡になっていて、登っていくと徐々に雪が見えはじめ、草地から灌木へ、灌木から樹木へと植物相が変化していく。標高2000メートル以上。そして巨大な大地の裂け目が見えてくる。ここもまた、貴重な水と樹木に恵まれた生活の地だった。今では主な観光スポットが国立公園になり、その周辺がいくつかの「インディアン居留地」となっている。ラスベガスから五時間かけてくるバスツアーもあるらしい。セドナまでは、フラグスタッフを経由して、さらに三時間弱の道のり。ヘレンさんが長い道のりを運転して、送ってくださった。

グランド・キャニオンと先住民居留地

http://www.mygrandcanyonpark.com/native-american-tribes/

セドナからフェニックス空港までの帰り道、シャトルバスの乗客は自分一人。運転手さんに「どこから来たの?」と聞かれ、「トゥバシティから」と答えると、「冗談だろう?」と問い返された。運転手さんはかつてフラグスタッフで車部品を販売する店をやっていて、ナバホ・ネイションとの仕事も少なくなかったらしい。それでも、フラグスタッフに住むナバホ族とは付き合いがあっても、ナバホ・ネイションにはそれほど友人はできなかったという。確かにナバホ・ネイションでは、モニュメント・バレーやグランド・キャニオンといった観光地を除いて、滅多に「外国人」らしき姿を見かけなかった。すっかり駆け足の滞在になってしまったが、貴重な経験をしたことは間違いないらしい。なんとか次回はもう少しゆっくり滞在できるようにしたい。

ナバホ・ネイション一泊二日滞在記 への2件のコメント
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ナバホ、テキサス、メキシコ

2016/12/16

アリゾナ州ナバホ・ネイション、テキサス州オースティン、メキシコシティ。期せずしてご縁が重なり、二週間で三カ所を回ってくることに。オースティンではナショナル・パフォーマンス・ネットワーク(NPN)年次会合、メキシコシティでは舞台芸術ミーティングENARTESに参加した。ニューヨークからは見えなかった「アメリカ」が見えてきた旅。

この地域は今ではアメリカ合衆国南西部とメキシコ合衆国に別れているが、テキサス革命(1835-36)~米墨戦争(1846-48)以前には同じメキシコ合衆国/共和国の北部と南部に属していた。さらに遡れば、メキシコシティはコルテスによるメキシコ征服(1519)以前にはアステカ王国の首都で、アメリカ大陸において農耕文化が最も発達したところの一つであり、今のテキサス州にあたる地域にもその影響が見られた。一方ナバホ族においては長く狩猟採集文化がつづいたが、やがてアステカなどで開発された農作物を近隣の部族から取り入れ、農耕をはじめていく。

米墨戦争以降、北米のこの地域は、人口分布も経済状況も大きく変化していった。今日オースティンは「シリコンヒルズ」とも呼ばれ、IT産業を中心に急速な発展を遂げつつある。だが国境が引かれたとはいえ、南北の往来は盛んだ。NPN年次会合でもENARTESでも、国境を超えて活動する多くのアーティストやプロデューサーに出会い、舞台芸術を通じてアメリカ大陸全体が結びついていく趨勢は「トランプ以後」においても断絶することはないように思えた。

***

ついでに名称の問題を今のうちに。「アメリカ」の歴史を語る際には、そもそもこの「歴史」を語る主体は誰なのか、というややこしい問題がある。「アメリカ」、「アメリカ人」という言葉は、「アメリカ合衆国」においては自国を指すために使われるが、もちろん「アメリカ大陸(人)」を指す言葉でもあり、他のアメリカ大陸諸国も含む。「南北アメリカ(the Americas)」という複数形の表現もあるが、形容詞(American)においてはAmericaのことを指すのか、Americasのことを指すのかはあいまいになる。この大陸で起きた幾たびもの独立革命において、「アメリカ人」という言葉は「(ヨーロッパではなく)アメリカ大陸で生まれた人」を指してきた(だからアメリカ合衆国においては国籍法においても「出生地主義」が採られている)。これと区別する意味で、いわゆるNative Americanは、ここでは「アメリカ先住民」と訳しておく。(そもそもアメリゴ・ヴェスプッチに由来する「アメリカ」という名称を冠するのも失礼な話だが。)

北米に属するメキシコも当然「アメリカ」の一部であり、メキシコ人もまた「アメリカ人(americano)」には違いない。このことは、ラテンアメリカの人と英語で話していると、よく指摘される。(そういえばカナダ人からは今のところ「自分たちもアメリカ人だ」という話は聞いたことがない。独立革命を経験していないからだろうか。)英語でもスペイン語でも、「アメリカ」という略称を避けて「アメリカ合衆国」を略したいときには、「合衆国(US / States, Estados Unidos)」と言うのが一般的。メキシコも今は「合衆国(Estados Unidos)」なのだが、何度も政体が変わっているので、こちらの方にはこだわりはないらしい。

問題は、英語で「アメリカ合衆国民」を指す適切な形容詞が確立していないことだ。スペイン語やフランス語では文脈によっては「合衆国民(estadounidense, états-unien)」といった言葉が使われるが、英語のUS American, United-Statesian, Usonian…といった言葉は今のところ(メキシコ人と英語で話すときも含め)使われるのを聞いたことがない。(それほど必要を感じる機会がないのだろうか。)ここでは、とりあえず日本語でそれなりに流通している「米国/人」を使っておく。

もう一つ、そもそも「メキシコ」というのも、スペイン語「メヒコ(México)」の英語読みなので、ちょっと気になるところではあるが、メキシコに滞在経験がある大江健三郎は「メヒコ」を採用していたものの、日本ではあまり流通していないので、Estados Unidos Mexicanosの略称としては「メキシコ」を使うことにしておこう。

・・・というわけで、追って各地のレポートをアップしていきます。

Nov. 28-Dec. 2, The Navajo Nation, Arizona

Dec. 2-5, Austin, Texas

NPN (National Performance Network) annual meeting

http://www.npnweb.org/site/annualmeeting2016/

Dec. 5-12, La Ciudad de México

ENARTES (Encuentro de las Artes Escénicas)

http://fonca.cultura.gob.mx/enartes2016-presentacion/

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ノースダコタの和解

2016/12/07

ノースダコタのパイプライン敷設問題をめぐって、アメリカ先住民と元米軍兵たちの間で歴史的和解。もしかしたら一つの節目になるのかもしれない。数ヶ月で全てが覆される可能性もあるが「私たちが大地を所有してるのではなく、大地が私たちを所有しているのだ。」

http://www.huffingtonpost.com/entry/forgiveness-ceremony-unites-veterans-and-natives-at-standing-rock-casino_us_5845cdbbe4b055b31398b199?ncid=engmodushpmg00000003

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メキシコから想像する

2016/12/09

メキシコシティ。タクシーのなかでメキシコと米国の演劇人がドナルド・トランプの話をしているところに、ラジオからジョン・レノンの「イマジン」が流れてきた。「国境のない世界を想像してみよう。難しいとは思うけど・・・。」全員しばし沈黙。

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モントリオールから「世界」は見えるか?

2016/11/16

土砂降りのニューヨークから一時間以上遅れて飛び立ち、モントリオール空港に降りると、陽光が差している。こんなことになるならもう少しニューヨークで起きていることを見届けておきたかった気もするが、週末まで舞台芸術見本市CINARSに参加。

最近ニューヨークで何度かカナダのアーティストに会ったり、ニューヨークの演劇人とカナダの演劇について話したりする機会があったが、ニューヨークの演劇人は驚くほどカナダで何が起きているのか知らない。CINARSとかワジディ・ムアワッドなどといっても通じないのはフランス語圏のケベック州だからかとも思ったが、英語圏のカナダ演劇界ともさして交流がないらしい。ニューヨーク市立大学演劇科(CUNY)のマーヴィン・カールソンさんは「ニューヨークの演劇界は全然インターナショナルではない。たとえばここで50年以上演劇を見てきたが、カナダの作品は2本しか見ていない」とおっしゃっていた。

米国から一番近い外国なのに、なぜなのか。メキシコ人の方がまだ目立っている気がする。英語圏カナダ出身の演出家に聞いてみたところ、「カナダの方が社会が先進的なので、扱っている問題も米国よりも先進的で、優れた戯曲が多い。カナダでは戯曲を重視していて、劇作家と演出家の間にある種のヒエラルキーがある。一方米国では舞台作品としての形式やヴィジュアルを重視する。そのため、深い内容をもっていても、米国では評価されにくいのかもしれない」という。作品の作り方も、評価のされ方も、同じ北米でもだいぶ違うらしい。ニューヨークにいてもモントリオールに来ても、「世界中」から演劇人が来ている集まっている、と感じるが、その「世界」の構成は、実はだいぶ違っていたりもする。

SPACの演劇祭の名前が「ふじのくに⇄せかい演劇祭」になったこともあって、最近「世界演劇」とは何なのか、よく考える。地方で演劇祭をやることのメリットの一つは、「国」を介さないローカルとローカルの関係が築きやすいことだ。先日のニューヨーク大学でのフランス演劇をめぐるシンポジウムでケベック出身のジョゼット・フェラル(パリ第三大学)が「演劇は(「グローバリゼーション」の時代とされる)今でもローカルなものだ。幸運なことに。」と発言していたが、実際、演劇作品がローカルな観客に支えられることなくいきなり「世界」を相手にするのはほとんどありえない。そもそも演劇は、観客として「世界」という漠然としたものを相手にするものではなく、ある特定の場所に集まる特定の観客のために上演されるものだ。

とはいえ、演劇祭が描く世界地図は、国や地域政府の助成金事情によって、かなり地域の比重が異なってきている。ケベック州は、人口ではカナダ全体の20

数パーセントだが、たしかカナダ以外で上演されている舞台芸術作品の8割位はケベックの作品だと聞いた。大まかにいえば、国や州政府などが助成金を出しているところは、創作環境も充実しているので、クオリティーが高い作品を作っている傾向はある。もちろんお金さえ出せば良い作品ができるとも限らないが、少なくともケベックはこれまで、シルク・デュ・ソレイユだけでなく、ロベール・ルパージュやワジディ・ムアワッドなどの才能を排出してきた。一方で、作品を作る環境に恵まれていない国では、そもそも作品を作ること自体が困難だし、それを自国以外の人にまで知ってもらうのはいよいよ困難だ。だからといって、そういった国で優れた才能が生まれないとも限らない。だが、作品を見に行くための予算も時間も限られているので、どうしても比較的恵まれた国の優先順位が高くなってしまう。数年前、カメルーン公演の帰路で、たまたま内戦が終結したばかりの中央アフリカを経由したとき、「きっとこの国には演劇の仕事で来ることは一生ないんだろうな」と思い、「世界」にはそういう地域がたくさんあるということを実感した。

それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも「演劇」と呼ばれるものがほとんど行われていない地域もある。たとえば、中東「演劇」に詳しいマーヴィン・カールソンの話。「よく、中東の演劇は19世紀にはじまった、というが、それは西洋演劇の模倣がはじまったという意味だ。中東にはそれ以前にも、さまざまなパフォーマンスの伝統があった。たとえば人形劇。西洋人は人形劇は子供向けのものと思っていたが、中東やインドネシアの人形劇、それに日本の文楽だって、全然そうではない。だが、西洋で書かれる「演劇史」に人形劇が含まれることは滅多にない。」そして、もちろん人形劇だってない地域も世界にはたくさんあるが、英語でいう「パフォーマンス」や日本語でいう「芸能」といったものが存在しない地域はない。だとすれば、演劇という概念を拡張するのがいいのか、あるいは「パフォーマンス」といった言葉を使うのがいいのか。前者が今フランスやドイツなどで起きていることで、後者は米国の解決策。とはいえ米国で「演劇祭」が「パフォーマンス・フェスティバル」に置き換えられたわけでもなく、今でも「パフォーマンス」は主にギャラリーなど非劇場スペースでの小規模な上演形態に使われる場合が多い。そして「演劇」に比べて「パフォーマンス」という概念はあまりに英語特有のもので、他の西洋語にすら訳しにくい、という問題もある。少なくとも、ここで浮かび上がるのは、「演劇」という概念をかなり広く定義しておかないと、「世界演劇」も世界のうちの狭い地域だけの話になってしまうということだ。

植民地主義の時代が終わり、「世界」に主体的に参画する地域が増えてきたことで、「世界」を見る視線もさまざまになり、その視線の全てを含めるような視覚をもつことが不可能になってきた。では、今日の世界は演劇によって表象できるのだろうか。

ある意味では、(広い意味での)演劇はいつでも「世界」を表象できていたし、これからもできるだろう。カルデロンの『世界大劇場』のように、「世界」が登場人物の一人となっている作品すらある。どんな小さな村に住んでいる人にだって「世界」のイメージがあるし、逆にどんなに「世界中」を旅して知っている人にだって世界の全てが見えているわけでは全くない。「世界」のイメージは、今では多くの人がテレビを通じて得ているが、そのイメージは往々にして、「国」と一致した規模のマスメディアによって媒介されている。「国際」ではない「世界」のイメージが存在していくためには、「演劇」なり「パフォーマンス」なりのローカルな表象形態はまだまだ必要なのではないだろうか。だとすれば重要なのは、一九世紀以来発展してきた国家/メディアが描く力線の向こうに、演じる身体と見る身体のあいだに生じるローカル(局所的)な「世界」への視線をなんとかしてふたたび見出すことなのではないか。

…などとつらつら考えながらぶらぶらしていたら、「世界」の全てが見えている人に出会ってしまった。

夜11時近く、さっさと夕食を済まそうと、一番早そうな近所のプーティン(フライドポテトにソースとチーズをかけたカナダ名物)屋に入った。店のご主人はいかにも店を閉めたそうで、「ピザとプーティンしかないよ」とぶっきらぼう。「じゃあピザとプーティンを一つずつ」と注文。「ここで食べてもいいですか」と聞くと、「もうそろそろ閉めるからねえ」といい、テイクアウトの準備をはじめる。。「長居はしませんから」といってみたら、わかったよ、という感じでフォークをつけてくれた。「このソースなんですか?」「何だと思う?スネークだ!ハハハ!」(「ハラル」と書いてあったので)「スネークもハラルなんですか?」「おまえイスラム教を知ってるのか?冗談だよ。チキンだチキン、ブラザー」等々。

店内で食べていたら、わざわざトレーとナプキンを届けてくれる。「優しいですね!」「ムスリムだからな!」ピザもプーティンも、期待はしていなかったが、それ以上に美味しくなかった。ただ分量はすごかったので、半分くらい残してしまった。支払って帰ろうとすると、主人が声をかけてくる。

「俺がなんでナプキンを届けたか、わかるか?それは俺が本を読んでるからだ。お前は仏教徒か?神は信じてるか?俺は物理学を勉強した。物理学をやっていると、我々を越えたものの存在を信じざるをえなくなる。俺は今でも、この店で、暇さえあれば本を読んでいる。俺はこのコスモスというものがどういうものかを知りたいんだ。この世界はどうなっているのか、何が正しいのか。そう思って、聖書も読んだし、ユダヤ教の聖典も読んだし、仏陀も孔子も孟子も読んだし、プラトンもソクラテスもアリストテレスもアルキメデスも、デカルトもニュートンも、シュレジンガーもハイデルベルクも、アインシュタインもホーキンスも読んだ。でも、これが正しい、と思う人と、あっちが正しい、と思う人がいて、何を読んでも、結局のところ、世界の全員を幸せにしてくれるものはなかなか見つからなかった。いろいろ読んだ末に、一冊だけ、本当にこの世界の全てのことについて語っている本に出会ったんだ。何だかわかる?」

「コーランですか?」

「そうだ。父親の宗教がどうとか母親がどうとか、そんなことは関係がない。俺は世界中の本を読んだ末に、ここにこそ真理が書かれていることがわかったんだ。この本には全て書かれている。だから俺はこの本が大好きなんだ。俺たちの宗教には、人を説得して改宗させられるなんて思ったりはしないんだ。自分の意思で、そういう気持ちになって本を読まないとな。だからムスリムになれ、なんて言わないが、とにかく本を読んでみてくれ。お前はこうやってピザとプーティンを残したが、今世界中では七億六千万人の人が飢えている。この本には、銀行に金を預けるな、と書いてある。だから俺も預けない。金があったら、人にあげればいいんだ。そうすればこんなに人が飢えたりしない。ここには宇宙のことも、生物のことも、すべてが書かれている。俺はこれを読んだから、今ではどんな疑問にも答えられるし、だから毎日よく眠れる。何か疑問があったら俺に聞きに来てくれ、ブラザー。ブラザーと呼ぶのは、ほら見てみろ、この俺の手とお前の手はほとんど一緒だろ?俺とお前のDNAは25%は一緒なんだ。(注:多分もっと一緒じゃないだろうか。)だからブラザーなんだ。もう俺とお前は、もしかしたら二度と合わないかもしれないが、本当に来てくれてありがとう。いつか、その気になったら、本を読んでみてくれ。」お互い、インシャラー、といって別れを告げた。

そして夜中に目が冴えてしまい、あのブラザーを見倣ってもっと勉強しなければ、とつくづく思った。

モントリオールから「世界」は見えるか? へのコメントはまだありません
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アメリカを超えるもの

2016/11/11

「合衆国大統領は、確かに陸軍総司令官ではあるが、その軍隊は六〇〇〇の兵力しかない。海軍の最高命令権者ではあるが、その艦隊には数隻の艦船しかない。大統領は外国と連邦との交渉に当たるが、合衆国に隣国は存在しない。大洋によって世界の他の地域から隔てられ、かといって海洋の支配をもくろむにはなお弱体なので、合衆国は敵を持たず、その利害が地上の他の国家と衝突する事は稀にしかない。…

アメリカ人の世界全体に対する政策は単純極まりない。他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としないといってもほとんどおかしくない。彼らの独立はおよそ脅威にさらされることがない。

だからアメリカ人において執行権が限定されているのは、法律のためであると同時に状況のせいでもある。大統領がしじゅう意見を変えても、国家が被害を被ったり、滅びることはない。」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一部第八章、松本礼二訳、原著1835年刊)

米国の大統領は、制度上は非常に大きな権限を持ってるように見える。だが、少なくともこの一九世紀前半の時点においては、大統領の主要な権限である外交と軍事は、フランス人トクヴィルの目には、この国にとってそれほど優先度が高いものとは映らなかった。モンロー主義が採られたのはこのような時代だった。

トクヴィルによれば、選挙によって国家元首を選ぶと、外交方針の一貫性が失われたり、さらには内戦や無政府状態といったリスクをも伴う。(この当時、フランスは立憲君主制を採っていた。)米国がこのリスクを取り得たのは、政治における外交や軍事の比重が小さく、大統領は実際のところ立法府である議会の従属的権力に過ぎないからだという。そして、各州の選挙人をつうじた二段階の選挙方式をとったのは、このような大国においては一人の指導者のもとに多数派を形成するのが困難なので、なかなか大統領が決まらないリスクを避けるためだったという(二大政党制が定着するのは一九世紀後半以降)。

トクヴィルは、大西洋の向こう側に生まれたこの国家が発明したさまざまな仕組みに対して賞賛を惜しまない。トクヴィルは「アメリカの中にアメリカを超えるものを見た」という(序文)。だが、トクヴィルはこうもいっている。「時の経過は常に、同じ一つの国民の中にも異なる利害を生ぜしめ、種々の権利を確立させる。…したがって、法が完全に論理的でありうるのは社会が生まれたその時だけである。ある国民がこの点で恵まれているのを見ても、この国民が賢いと即断してはならない。むしろ若い国民だと考えるべきなのである。」それから二世紀近くを経た今、米国はどのようにすればトクヴィルの見た偉大さを取り戻すことができるのだろうか。

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大統領選挙

2016/11/09

ニューヨーク・タイムズ紙による統計。大学卒以上のヒラリー・クリントン支持率49%。大学院卒以上58%。LGBT78%。ニューヨーク州では59%。マンハッタンでは90%を超えている。

http://www.nytimes.com/interactive/2016/11/08/us/politics/election-exit-polls.html

http://www.nytimes.com/elections/results/new-york

ニューヨークの舞台芸術業関係者の支持率、という統計があったとすれば、やはりおそらく90%近いのではないか。ニューヨークに来てから、「トランプを支持している」という方とはまだ話せていない。昨日の夜に至るまで、トランプの勝利を危惧する方には出会っても、それを予想した方には一人も出会わなかった。

思えばニューヨークの舞台で、トランプの支持率が高い「中西部・南部の郊外あるいは人口5万人以下の共同体に住む人々」の生活が表象されるのはまだほとんど見たことがない。今のところ、ブロードウェイで現在上演されているミュージカル『ウェイトレス』(エイドリアン・シェリー作の映画にもとづく)が唯一の例外だった。もうちょっと視界を拡げないと。

http://www.nytimes.com/2016/04/25/theater/review-jessie-mueller-serves-a-slice-of-life-with-pie-in-sara-bareilless-waitress.html

翻って、日本ではどうだろうか。

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