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リチャード・シェクナーとACC 2016年12月28日

2016/09/22

リチャード・シェクナーさんのお話。1968年に『ディオニソス69』を上演していたとき、ジョン・D・ロックフェラー三世が観にいらした。公演後、声をかけてくれ、「アジアには行ったことがありますか?」と聞かれた。「ありません」と答えた。「行ってみたいですか?」と聞かれたので、「はい」と答えた。すると、名刺をくれ、「いつでも、好きなところに行っていただければ良いので、こちらにご連絡ください」とおっしゃってくれた。それで、1970年から、中国、日本、台湾、インド、マレーシア、インドネシア、パプア・ニューギニア、シンガポール等々に行くことができた。70年にインドで1ヵ月間クリシュナマチャーリヤからヨガを学ぶことができたことは、私にとって、博士論文と同じくらい重要な経験だった。また、各国で出会ったアーティストが、その後ニューヨークにも来てくれるようになった。

ジョン・D・ロックフェラー三世は1956年にアジア・ソサイエティーを創立し、ジャパン・ソサイエティの活動にも大きく寄与している。アジアとの交流をさらに深める事業を考えていた時にシェクナーと出会ったらしい。この2人の出会いがなければ、シェクナーが非西洋的なパフォーマンスの形態と出会うこともなく、もしかしたらパフォーマンス・スタディーズも生まれなかったかもしれない。こう思うと、ACCとパフォーマンス・スタディーズの間には、ある種必然的な関係があったともいえる。

(シェクナーは1970年には36歳だった。自分もまだあと40年あるのかと思えば、ちょっと希望が湧いてくる。)

※その後ACCの方に伺ったら、「ジョン・D・ロックフェラー三世ではなくて当時の理事長と会ったんじゃないかな」という説も。

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パフォーマンス・スタディーズの80年代以降の展開

2016/09/17

(承前)パフォーマンス・スタディーズは、70年代末~80年代初めの成立当初には文化人類学との結びつきが強かった。1960年代~70年代にはアフリカや中東諸国の独立が相次ぎ、文化人類学は植民地的状況を背景にした研究のあり方への見直しが迫られていた。パフォーマンス・スタディーズはこの動きを受けて、西洋中心的な「演劇」・「ダンス」といった概念を再検討するに至った。ニューヨーク大学に世界で初めてのパフォーマンス・スタディーズ科ができたのは1980年。

だが、80年代はエイズ危機の時代でもあった。トニー・クシュナー『エンジェルズ・イン・アメリカ』第一部は1989年発表。古橋悌二さんは1985年にはじめてニューヨークに行き、1992年にHIV陽性を発表。1993年にACCグランティ。ダムタイプの『S/N』は1994年に初演された。セクシャル・アイデンティティの問題がとりわけこのニューヨークで、何よりも重要な社会的問題の一つになった背景には、全国どころか世界中からセクシャル・マイノリティーが集まってくる、というこの町特有の事情もある。同時期にフェミニズムも新たな展開を迎えている。ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」が1985年。

セクシャル・アイデンティティの問題が重要な課題として扱われることになったのにつれて、植民地批判に留まらない、より普遍的な批判理論が重要視されるになった。80年代以降、「他者をいかに受け入れるか」という問題から、「他者としての自己をいかに社会に受け入れさせるか」、という問題に移行してきたように見える。これは、まさにパフォーマティヴな展開だったと言えなくもない。白人男性がエキゾティックな文化をいかに自分の生活に取り入れていくか、という問題が、それ自体コロニアルなものとして批判され、ヘテロ男性が作ってきたホモソーシャルな社会の中で、どうすればセクシャル・マイノリティーあるいは女性が正当な地位を獲得できるのか、という問題が、より切実な問題と見なされたことも納得はできる。この時に、文化人類学やポスト・コロニアリズムの理論が、必ずしも役に立たなかった、というのは確かだろう。とりわけ、フランクフルト学派やフーコー等のフレンチ・セオリーが重要性を持った理由も納得ができる。もう一つ、ポスト・コロニアリズムが盛り上がれていない背景として考えられるのは、全く異なる問題だが、セクシャル・マイノリティーとフェミニストがある程度連帯できたのに対して、なぜかアフリカ系、アラブ系、アジア系、ヒスパニック系の連帯ができていないということもある気がする。

だが、西洋中心主義から逃れようとしていたはずのパフォーマンス・スタディーズが、いつの間にか再びフランス現代思想に根拠を見出そうとしているのは、なんだか皮肉なことのように思えてならない。うがった見方をすれば、パフォーマンス・スタディーズのアカデミズムにおける制度化の中で、フレンチ・セオリーが、ある種の権威付けの役割を果たしたのではないかという気もしないではない。

また、セクシュアリティーがアイデンティティーの問題とみなされると、本質論的な議論になりがちに思える。そのなかで逆に、いかにして他者の欲望を自らのものにするか、あるいは、いかにして自らの欲望を他者に共有してもらうか、という問題が比較的マイナーな問題になってしまったとすれば、ちょっともったいないようには思う。また、ダナ・ハラウェイらによる生物学としての人類学に対する批判は重要だが、パフォーマンス・スタディーズにおいて理科系の人類学・心理学との関係性があまり見られないことも、私には少し残念なことのようにも思われる。

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パフォーマンス・スタディーズと文化人類学

2016/09/17

パフォーマンス・スタディーズと文化人類学に興味がある、というと、今のところ、どこに行っても困った顔をされる。ニューヨーク市立大学では、うちは演劇科だから、といわれ、ニューヨーク大学のパフォーマンス・スタディーズ科に行ってみても、文化人類学はどちらかというとノースウェスタン大学かな、といわれる。確かにニューヨーク大学のパフォーマンス・スタディーズ科の先生たちを見ても、ほとんど文化人類学と関係がある先生はいない。創立者のリチャード・シェクナーくらい。誰に聞いても、それならシェクナーだね、といわれるばかり。

昨年のPSi (Performance Studies international) in Aomoriに参加してみて驚いたのは、アメリカのパフォーマンス・スタディーズの研究者たちが、フーコー、ドゥルーズ、デリダといった名前ばかり口にすることだった。パフォーマンス・スタディーズはここ20年ほどで、シェクナーがはじめた時代とはだいぶ違うものになっているらしい。もはやシェクナーが切り拓いてきたようなフロンティアがなくなってきていることも理由の一つなのかもしれない。せっかくアメリカに来てフレンチ・セオリーを学んで帰るのも癪なので、もうちょっと別のことをしている方を見つけたいところなのだが。とりあえず、少しずつ、どうしてこういう状況になってきたのかはわかってきた気がする。いろいろ考えさせられる。

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9.11世代

2016/09/15

9.11世代。この1週間で、9.11のあと中東に行き、アラビア語を学んで、文化交流の仕事をしていた、というニューヨーカーに2人出会った。2人とも20代前半に9.11を経験している。米国は戦後、日本の労働運動の指導者たちを招き、米国の組合関係者たちと交流させ、反米活動を防ごうとしたという。確かに、実際に米国で暮らしてみると、外から見るのとは違った面がたくさん見えてくる。

米国にいて日々感じるのは、目に触れるものの分かりやすさだ。広告や掲示など、私のようにこの国に来て数日しか経っていない住民にも分かるような言葉で書いてある。ちょっと難しいことをいうと、多くの人には伝わらない、ということが強固な前提となっている。さらにスペイン語や中国語も交えた二カ国語・数カ国語表記になっている場合も多い。これはフランスにはまず見られない(フランスではフランス語の地位を守るためのトゥーボン法があり、外国語を使った広告には仏訳をつけることになっていたりする)。この国の共通言語は英語以上にドルなのだ、と思うと、いろいろなことが腑に落ちるようになる。政治思想としての資本主義を傷つけることがいかに危険なことなのかも、ちょっと想像できるような気もしてきた。

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ACC、日本現代演劇のグランティー

2016/09/09
ACC(Asian Cultural Council)、日本からのグランティー・助成プロジェクト参加者のなかで、自分が作品を知っている、いわゆる現代劇の劇作家・演出家に限ってリストアップしてみる。生年別に分けてみると、世代によって、米国が占める位置が変わってくるのが見えてくる。※印はACCとは関係なく、補助線として、同世代で思いついた方のお名前。

30年代生まれ
笈田ヨシ(1933)
山崎正和(1934)
寺山修司(1935)
鈴木忠志(1939)
太田省吾(1939)

40年代生まれ
唐十郎(1940)
※佐藤信(1943)
※岸田理生(1946)
※つかこうへい(1948)

50年代生まれ
※岩松了(1952)
※栗山民也(1953年):イギリスに留学
※鵜山仁(1953年):フランスに留学
※野田秀樹(1955):イギリスに留学
小池博史(1956)
原田一樹(1956)
※如月小春(1956):オーストラリアに留学
※宮沢章夫(1956):マダガスカルへ
※鴻上尚史(1958):イギリスに留学
川村毅(1959)
マキノノゾミ(1959)

60年代生まれ
古橋悌二(1960)
坂手洋二(1962)
※平田オリザ(1962):韓国に留学
※松田正隆(1962):イスラエルに留学
※小野寺修二(1966年):フランスに留学
羊屋白玉(1967)
やなぎみわ(1967)
※土田英生(1967年):イギリスに留学
※青木豪(1967年):イギリスに留学

70年代生まれ
矢内原美邦(1970) ※ブラジルにも留学
※夏井孝裕(1972):フランスに留学
岡田利規(1973)
※三浦基(1973):フランスに留学
※長塚圭史(1975年):イギリスに留学
※森新太郎(1976年):アイルランドに留学
※小川絵梨子(1978年):アメリカに留学(ACCグランティーではない)
※上村聡史(1979年):イギリス、ドイツに留学

80年代生まれ
※谷賢一(1982年):イギリスに留学
※田中麻衣子(?年):イギリスに留学
※大塩哲史(?年) アメリカに留学(文化庁)

ここから見た限りでは、すごく大ざっぱにいえば、
30年代生まれ:何はともあれ米国に
40年代生まれ:あまり留学しなかった世代
50年代生まれ:留学先が主に英語圏で多様化
60年代生まれ:留学先が英語圏以外にも広がる
70年代生まれ以降:留学先・手段がさらに多様化

といった感じだろうか?ちょっと70年代以降についてはあまり情報がないので、思いつく方がいらしたら、ぜひ。

追記:高野しのぶさん等から、とりわけ70年代以降の劇作家・演出家について貴重な情報をいただき、リストに追記しました。こうしてみると、留学先が多様化しただけでなく、「ACC以外にも海外渡航する手段ができた」ということも大きいですね。特に若い世代では、アーティストとしてでなく、学生時代に留学している方もけっこういらっしゃいますし。ふたたび英語圏回帰の傾向もあるのでしょうか?あと、最近ACCでアメリカに来る劇作家・演出家が少ないのは、アメリカ自体に来ていないわけではないので、単に情報が行き渡っていないのかも知れません。

文化庁の「芸術家在外研修員制度」は1967年にはじまったそうです(2002年から「新進芸術家海外留学制度」に改称)。

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ACC、日本からのグランティー

2016/09/08

ACC(Asian Cultural Council)リサーチの一環として、過去のグランティーのリストをチェック中。日本のグランティーのリストを見てみると、驚くばかり。目についたお名前をピックアップしてみた(見落としもあると思いますので、ご容赦ください)。以下、アルファベット順、敬称略。米国以外に、アジアに滞在してもいいグラントなのだが、このうちの全員が(間違いなければ)米国に滞在している。けっこう意外な方も。アジアの舞台芸術における米国の位置について考える、というのがテーマの一つなのだが、こうして見ると、時代によって米国が占める位置が変わってきているような気もする。ただ、あまりに多くの、いろいろな分野の方がいらしていて、リストを作ってみても、とりあえずは呆然とするばかり。これからゆっくり考えてみる。

舞台芸術関連(他分野の専門家・申請内容でも、主観的に舞台芸術と関係が深い方を含む):

足立智美

天野由起子

浅田彰

朝倉摂

古橋悌二

原田一樹

原田敬子

長谷川六

林光

羊屋白玉

細川俊夫

三代目市川猿之助

市川雅

石岡瑛子

磯崎新

岩淵多喜子

唐十郎

笠井叡

川村毅

木佐貫邦子

北村明子

小池博史

小山田徹

小谷野哲郎

國吉和子

黒沢美香

李麗仙

マキノノゾミ

麿赤兒

畠由紀

三浦雅士

室伏鴻

武藤大祐

内藤美奈子

中川龍一

中嶋夏

中谷芙二子

大橋宏

太田省吾

笈田ヨシ

岡田利規

岡本芳一

大倉正之助

鴻英良

坂本公成

坂手洋二

佐東範一

茂山あきら

茂山千之丞

白石加代子

鈴木忠志

高橋宏幸

武満徹

玉井康成

田中泯

寺山修司

勅使川原三郎

土取利行

辻村寿三郎

梅田宏明

山田せつ子

山川冬樹

山崎広太

山崎正和

やなぎみわ

矢内原美邦

横堀ふみ

横尾忠則

四方田犬彦

米屋尚子

吉田玉松

それ以外:

会田誠

粟津潔

藤枝守

羽仁進

長谷川祐子

一柳慧

池辺晋一郎

池田満寿夫

加納光於

柏木博

川俣正

香月泰男

小泉文夫

近藤譲

隈研吾

草間彌生

三木富雄

宮島達男

元永定正

村上隆

内藤礼

名和晃平

岡崎乾二郎

大友良英

小澤征爾

澤登翠

篠原有司男

高橋アキ

二代目高橋竹山

高橋悠治

高階秀爾

瀧口修造

田村隆一

田中功起

谷川俊太郎

東野芳明

土本典昭

宇佐美圭司

渡辺香津美

ヤヒロトモヒロ

吉増剛造

湯浅譲二

(とりあえず、以上)

注記:以上には個人のグランティーだけでなく、採択されたプロジェクトに参加した方(project participant)も含まれています。2013年以降のグランティーは含まれていません。

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ニューヨーク

2016/09/01

ニューヨーク行きの機内で、はっとした。ガイドブックを買い忘れた。はじめて行く国にはたいていガイドブックを持っていく。アメリカははじめてではないものの、どこに何があるのか、ほとんど何も知らないということに今になって気づいた。

56年前、SPACでコロンビアのボゴタ演劇祭に参加したとき、コロンビア出身の演出家オマール・ポラスさんに、アンデス山脈に連れて行ってもらったことがある。満天の星の下で、インディオのタバコを使う儀式を教えてくれた。そうか、ここは新大陸ではなくて、とても古い文化があるところなんだ、と急に実感した。それ以来、自分とこの大陸との関係が少しずつ変わってきたような気がする。

なぜアメリカなのか。最近アジアのアーティストと出会う機会が増えてきた。多くのアーティストから、アメリカで学んできたという話を聞いた。フランスとかドイツなどというのは少数派だ。思えば日本でも、おおまかにはそうだろう。なぜアメリカに行くのだろうか。自分はそんなことは夢にも思わなかったのに。・・・というのはウソで、本当は、単に英語ができなかったり、競争率が高そうだったから、はなから諦めていたのだと思う。アメリカ文化への憧れは、常になにがしかの畏れとともにあった。

今回、どうしてもアメリカに行きたいと思ったのは、演劇祭のプログラムを組む仕事にも自分の研究にも、行き詰まりのようなものを感じてきたからだ。ヨーロッパ中心の演劇史を批判的に検証するような仕事をしようとしてきたが、自分がまともに学んできたのがほとんどそれだけなので、そこから離れてしまうと、軸足を失ってしまう。そのためにも、パフォーマンス・スタディズのことをもっと知らなければ、と思った。

アジアのアーティストがアメリカを選ぶ理由はいろいろあるだろうが、一つには、ヨーロッパ的な演劇史の束縛が小さいこともあるに違いない。ヨーロッパで演劇を学ぼうとすると、ソフォクレス、シェイクスピア、ラシーヌ、イプセン、チェーホフといった作家中心の演劇史を学ばざるをえない。だが、アメリカから見れば、これもいわばヨーロッパローカルな歴史に過ぎない。アテネもローマもパリも、北京や東京やジャカルタも、いわば等距離に見るような視点が可能になる。今夜はピザにしようか、ラーメンにしようか、というくらいの。このあたりが、アジアの多くのアーティストにとって、ヨーロッパよりもずっとやりやすいところなのではないだろうか。シンガポールのオン・ケンセンも、フィリピンのクリス・ミリヤードも、ニューヨーク大学のパフォーマンス・スタディーズ科でバリ島の演劇について学んだのだという・・・。

そんなわけでこれから6ヶ月間ニューヨークに滞在し、Asian Cultural Councilのグラントをいただき、アジアのアーティストたちへのパフォーマンス・スタディーズの影響やアメリカ在住のアジア系アーティストについてリサーチをすることになりました。今朝、静岡の田んぼが隣にあるアパートを出て、先ほど、国連本部に近い44丁目のアパートにたどりついたところです。ニューヨークにお住まいの方、これからいらっしゃる方、ぜひお声をかけてください。

http://www.asianculturalcouncil.org/japan/grantee_2016/

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