1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(4) 外交戦略としての文化政策
(承前)
2.米国における実験的演劇の製作状況
2.2.外交戦略としての文化政策
とはいえ、ケネディもジョンソンも、必ずしも文化を社会の中心に置くべきだと考えて文化政策を立案したわけではない。それに両者とも、「高尚」な、あるいは「前衛的」な芸術が好きだったわけでは全くない。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』が面白いのは、文化政策というものがいかにほとんどの(とりわけ米国の)政治家にとって優先順位が低いものか、ということを深く認識したうえで(自身が文化官僚として実感したことなのだろう)、それなのになぜ実行されるに至ったのか、という経緯を理解しようとしているところだ。
米国とヨーロッパのちがいを考える上で、まず何よりも重要なのは、文化芸術に対する政府関与の姿勢だろう。大まかには、少なくとも冷戦時代には、旧ソ連から東欧を経てドイツ・フランス・英国・米国と、東から西に行くに従って、舞台芸術に対する国家や地方政府の関与が弱くなっていた。米国では、文化芸術には国家(=連邦政府)は介入すべきではない、という考え方が強固に根づいている。
だが、1960年代には連邦政府の重要な方針転換があった。この時代の米国の「文化政策」をめぐる状況はけっこうややこしいので、誤解のないように、先にむりやり大きな状況を一言でまとめておくと、1960年代は連邦政府の段階的な介入もあって、舞台芸術に対するフィランソロピー、つまり民間の寄付が飛躍的に拡充した時代だった。これは一見矛盾するようだが、実はそうではない。
ケネディ政権があえて「文化政策」と呼ぶべきものに一歩踏み出すことになった理由は、2.1.で見たような国内事情よりも、むしろ外交にあった。ケネディ政権発足から数ヶ月後の1961年4月、ソ連のガガーリンがはじめての有人宇宙飛行を成功させる。当時ソ連は、自国こそ知識人と芸術家の祖国であり、アメリカには愚かなマスカルチャーしかない、と宣伝しつづけていた。それに対抗して米国国務省も、1950年代から様々な分野のアーティストや作家を世界に派遣していた。だが、1957年のスプートニク・ショックにつづき、米国が知的・文化的優越性を確信できない時代がつづく。このためもあり、ケネディは1961年6月の訪仏でフランスの文化大臣アンドレ・マルローと出会い、翌年マルローを米国に招聘する。ケネディはフランスが進める新たな国家的文化政策に注目していたのだ。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 32-37, 342)
だが一方でケネディは、「公務員と助成制度を備えた文化行政機関を作ることには一貫して反対だった。と言うのも、そのような機関は芸術を制度化し、官僚主義を生み、創造活動のダイナミズムと芸術家の自由に害をもたらすと考えていたからである。」(p. 54)そして何よりも、米国はソ連とは異なる芸術活動のあり方を提示しなければならなかった。ケネディは暗殺の数日前に行われた詩人ロバート・フロストを讃える演説で以下のように語っている。「芸術はプロパガンダの一表現ではないことを忘れてはならない。…自由な社会において芸術は武器ではないし、芸術を論争やイデオロギーの領域に従属させてはならない。…よそでは違うのかもしれないが、民主主義社会においては、芸術家、作家、作曲家の最も大きな義務は自分自身であり続けることである。」(p. 33)ケネディ政権で大統領特別補佐官として文化政策を担ったアーサー・シュレジンガーも、戦後間もなくアメリカ共産党批判を展開したことで知られる自称「反スターリン主義リベラル」の中道左派知識人で、「全体主義的な方法論を採らずに、いかにして全体主義と戦うのか」というのがシュレジンガーにとって重要な政治的テーマの一つだった(p. 25)。この意味で、ケネディ政権においては、フランスのように「国立劇場」をつくってそこを舞台芸術活動の拠点にする、というのは全く問題外だった。(のちの「舞台芸術のためのジョン・F・ケネディ・センター」は必ずしもケネディが構想したものではない。)
ケネディ暗殺によって突如大統領となったジョンソンも、特に文化芸術に興味があったわけではない。ジョンソンは知識人や芸術家が多いボストン育ちのケネディとは異なり、テキサスの農村地帯に生まれ、南部を地盤としていた。ケネディから引き継がれた特別補佐官シュレジンガーはジョンソンに、連邦政府が文化芸術に介入することで「政府と芸術家・知識人コミュニティーとの結びつきを強めることを可能にしますし、このことは(翌年予定されている)大統領選挙の勝敗が、ニューヨーク州、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、イリノイ州、ミシガン州で誰が勝利するかにかかっている以上、無視できないことです」と進言した(ちなみに今回全米芸術基金の廃止を提案しているトランプは、民主党の地盤であるニューヨーク州、イリノイ州では敗北したが、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、ミシガン州では僅差で勝利している)。ジョンソンは1964年4月、新たな文化補佐官にブロードウェイのプロデューサーとして知られたロジャー・スティーヴンズを指名し、新たな「文化政策」の基軸を示す。同年11月には大統領選に勝利し、就任式にはジャスパー・ジョーンズ、ホッパーなどの画家、アルヴィン・エイリー、マーサ・グレアムなどの振付家が招待された。さらにストラヴィンスキー、アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、バランシン、ヌレエフなどロシア系や旧ソ連出身のアーティストを並べて、「自由主義陣営」の卓越性を示そうとした(p. 62-65)。
まとめておけば、この時代に文化芸術が(多少なりとも)重視された主な理由は三つあった。まず第一に、ソ連に対する優越性を示すこと。第二に、「文化芸術」への関心が強い(そして往々にして政権に対して波風を立てがちな)知識人を味方につけること。最後に、ここでは触れなかったが、「文化芸術」というセクターの経済規模が注目されはじめたこと。はじめの二つの背景にはもちろん、ケネディ・ジョンソン両政権が拡大させていったヴェトナム戦争への介入もある。この戦略は次第にジレンマに陥ることにもなるが、その話は追って。
ここで注目しておくべきなのは、ジャスパー・ジョーンズやマーク・ロスコといった抽象表現主義の画家がすでに米国独自の「前衛」を国家的に代表するアイコンとして選択されていたことだろう。一方で、ここでは「卓越性」を示すのが目的なので、勃興しつつある若者文化・マイノリティ文化はほとんど取り上げられていない。むしろ「優れた文化」を庶民へ、という上から下への構図が当然の前提となっている。この構図が、ジョンソン政権で、芸術振興が「教育」の一環として進められていく背景にある。
(つづく)
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