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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(7) ベトナム戦争と表現の自由 2017年3月24日

2.米国における実験的演劇の製作状況(承前)

2.5.ベトナム戦争と表現の自由

米国で連邦政府が文化に予算をつけていくようになるのはベトナム戦争の時代だった。民主党のケネディ政権下で全米芸術基金のもとになるアイディアが提出され、ケネディ暗殺後にジョンソンがそれを議会に通して基金を創立させ、最後に共和党のニクソンが予算を倍増させた。(三人とも、先鋭的な芸術にはほとんど興味がなかったにもかかわらず。)

ベトナムをめぐる「自由な芸術表現」をいかに扱うか、というのは、この時代の米国の指導者たちにとって、かなり頭の痛い問題だった。1965年、全米芸術基金発足の年に行われた「ホワイトハウス芸術祭」は、抽象表現主義の代表的なアーティストの作品が展示されただけでなく、アーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズの作品の抜粋が上演され、他分野の先鋭的な芸術が一同に会する大規模なものだった。だが、招待を受けた国民的詩人ロバート・オーウェルによる「ベトナム戦争への抗議のために参加しない」という表明が『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面を飾り、芸術祭自体も強烈な抗議行動の場となった。ジョンソン大統領は「芸術家の独立性を歓迎する」と言いながらも、「みなさんの芸術は、政治のための武器ではありません」と付け加えずにはいられなかった。この年、アーサー・ミラーも同じ理由で「全米芸術人文財団」創設の式典への招待を拒否している。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 88~98)

全米芸術基金は結果的にベトナム戦争反対を唱えるアーティストたちにも助成金を支給したりしていて、国内的には批判もあった。だが少なくとも、「自由主義陣営の文化的優越性」を示す、という政策意図はそれなりに実現されていた。

どちらが利用し、どちらが利用されたのか、という議論はあまり有益ではないだろう。影響力の大小があるとはいえ、どちらも同じ共同体の成員であり、むしろ「異論(=評価の定まっていない「前衛」)もまた共同体にとって有益である」ということを、共同体のうちの一定の層が覚悟をもって受け入れたということが重要ではないか。そしてこのことの価値は、ベトナム撤退後にいよいよ実感されたことだろう。戦時中にもかかわらず、アーティストたちが異なる声を発しつづけられる環境を保持したことで、この時代の米国が「表現の自由」についての重要な模範を提示したことは間違いない(もちろん例外もあったが)。米国はベトナム戦争には敗北したが、「共産主義陣営」との文化戦争にはある意味で勝利したといってもよいのかも知れない。

(つづく)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(6) フィランソロピーと「芸術の自由」 2017年3月22日

2.米国における実験的演劇の製作状況

(承前)

2.4.フィランソロピーと「芸術の自由」

「全米芸術人文財団」傘下にできた「全米芸術基金(NEA, National Endowment for the Arts)」の仕組みは、日本やフランスから見ると、かなり不思議なものだ。ジョンソン大統領はこの組織の設立を推進しながらも、芸術はフィランソロピーと裕福な寄付者に任せねばならず、公的支援に関しては連邦政府よりもまず州や市町村に頼らなければならない、と考えていた。そのため、ここでは「マッチング・ファンド」というルールが採用されている。「ある文化団体が公的助成を受けるためには、他の財源から同額の資金を団体自ら調達することが条件となる。…国の助成金を撒き餌として他の資金を獲得することで、間接的にフィランソロピーを活性化するのである。」これは「芸術や芸術団体が国のみに依存し、国に対して服従し、官僚まがいの存在となる危険を犯すことを避けて、彼らの自由を保障することができる唯一の方法だ、と考えられている。」そして、審査にあたっても国の直接介入を避け、官僚ではなく芸術家と専門家で構成される中立な審査委員会によるものとした。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 86-92)

つまり全米芸術基金は、独自の「文化政策」を実現するための文化庁/省のようなものでは全くなく、むしろ「民間によるフィランソロピーを活性化する」ことを目的とした組織なのだ。なぜ国家よりも富裕者が作った財団の方を信用するのか。このあたりは「国家」を信頼しがちなフランス人や日本人にはなかなか理解し難いところだろう。アメリカ合衆国は「国家」というものへの徹底した懐疑に基づく逆説的な国家なのである。たとえば銃の個人所有に関する規制への根強い反対も、これが見えないと理解しづらいだろう。ハワード・ファインマンは銃規制の難しさについて、「アメリカの建国者たちは、啓蒙主義思想の一環として「武器を所有する」権利を支持した。一国家の中で複数の権力が存在することによって専制国家になることを防ぐことができるとする思想だ。だから、合衆国憲法修正第2条では、地域ごとの民兵は中央権力に対抗し均衡を維持するために必要であるという旨を述べている」とする。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/10/08/why-america-wont-quit-guns_n_8266830.html

ちょっと話が逸れたが、フィランソロピーという思想を理解することは、米国における「前衛芸術」というものの位置を考える際にも重要になる。ゴールドバーグは1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議の際、フィランソロピーについて、「芸術はしばしば観客の趣味よりも先を行っていたり、これに対するものであったりし、それゆえにまだ一般に広まってない間は支援を必要とするため」重要なのだ、と語っている(p. 48)。米国では、主に富裕層が前衛的な芸術家を保護する役割を果たしているという現状があり、今後もその役割を果たしつづけてもらいたい、という認識を示しているわけである。ここでは、たとえばジョン・D・ロックフェラー二世夫人アビーらによって創設されたニューヨーク近代美術館(MoMA)などを思い浮かべてもらえばよいだろう。「ゴールドバーグ宣言」に見られるこの認識は、米国における「アヴァンギャルド」とは何か、ということを考える際に、きわめて重要である。

一方、フィランソロピーというのは徹底的に資本主義的な仕組みであり、とりわけアンドリュー・カーネギー(1835-1919)の実践と、その著書『富の福音』(1889)が最大のモデルとなっている。芸術におけるフィランソロピーの発想の基底には、富裕者(=ビジネスにおける成功者)は知者であり賢者である、という了解がある。米国においては富裕者は社会におけるイノベーションを担う人間であり、この意味で、まさに富裕者こそが社会の「前衛」であるとみなされる素地がある。このあたりはカソリック思想をもとに作り上げられた社会には受け入れられにくいものなのかもしれない。

もう少し正確にいえば、「フィランソロピー」という語はそもそも「人間愛」という意味で、必ずしも富裕者が行うものとは限らない。カーネギーも、大きな財産をもたない人々が少しずつ寄付したり、貧しい人々もボランティアとして自分の時間を提供したりすることで「フィランソロピー」に参加する、ということを重視している。さらにいえば、フィランソロピー全体のなかで文化芸術が占める割合はそれほど大きいものではない。米国における非営利組織への寄付の内訳は、36%が教会、13%が学校や大学、8.6%が医療・保健、5.4%が芸術文化だという(p. 335)。ただ、たとえば国家予算と比べると、文化予算の割合が大きいフランスでも1%くらい(日本は0.1%、米国は0.04%くらい)なので、比較的大きな割合ともいえる(もちろんフィランソロピーが担う分野と国家が担う分野が一致するわけではないが)。

そして、とりわけ文化において、フィランソロピーを先導するのが貧しい人々ではなく富裕者であるということは間違いない。寄付文化は米国の多くの階層に根づいていて、1998年には全世帯の70%が何らかの寄付をしたとされる。だが庶民的な階層や中産階級が寄付をするのは主に教会、保健医療、学校といった分野で、芸術に対する寄付の93%は米国人口の4.2%にあたる最富裕層から、そして76%はその最富裕層のわずか1.2%の大富豪から提供されている(p. 379-380)。最富裕層が文化芸術に力を入れるのは、一つには、宣伝効果という面でコストパフォーマンスがいいことだろう。フォード財団で文化事業を担当するマクニール・ラウリーによれば、「フォード財団が六万ドルを文化に寄付すれば、ニューヨーク・タイムズの表紙を飾ることも可能だが、七〇〇〇万ドルを教育支援事業に生じたとしても三七面に乗るだけだ」(p. 342)という。ケネディ以降の政権が徐々に「文化政策」に力を注いでいくのも(もちろん相対的にではあるが)、同じ理由だろう。とりわけ、ほぼゼロからの出発であれば、相対的な予算額は小さいにしても、そのインパクトは大きなものとなる。

では、具体的に誰が先鋭的な芸術にお金を出していたのか。1960年代には、とりわけロックフェラー家とフォード財団の貢献が大きい。まずはロックフェラー家の方から。先代のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの時代には、ロックフェラー財団は「保守色がきわめて強かった。それは強烈な反共産主義と共和党支持(後にはヴェトナム戦争支持)によっても明らかである」(p. 324)。一方、その妻アビーは先述したようにMoMAの創設者の一人だった。

このMoMAが抽象表現主義の普及に果たした役割は、米国におけるフィランソロピーと連邦政府との錯綜した関係を象徴するものでもある。ロスコ、ポロックらの抽象表現主義は、社会主義リアリズムとは対照的な表現で、態勢に迎合しない米国の自由社会の象徴として、1946年から国務省が予算を出して巡回展をはじめていた。ところがマッカーシズムのなかで共和党から、抽象表現主義もヨーロッパのさまざまな「~イズム」に起源をもつもので、共産主義と共謀して米国の倫理的基盤を危うくするものだ、と批判されるようになる。そして展覧会に参加したアーティストのなかに「非米」活動や共産党の活動に関わった人物がいることも明らかになる。その結果、1950年代からは、MoMAが国務省に代わって抽象表現主義を世界に普及させていく役割を果たしていくことになる。1954年にはMoMAがヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館を国務省から買いとり、世界で唯一、政府ではなく民間の施設がここで国を代表することになった。だがこのMoMAの当時の理事長は政界で活躍したネルソン・ロックフェラーで、1960年以来三度にわたって共和党の大統領候補になっており、当時は国務次官だった。MoMAによる国際事業の活動資金はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアやネルソンが創設したロックフェラー兄弟基金だけでなく、CIAからも提供されていたことが分かっている(p. 124-133)。つまりこの時代、ロックフェラー家の公私にまたがる文化活動は、冷戦下の自由主義的資本主義陣営において、文字どおり「前衛」の役割を果たしていたのである。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの息子である「ジョン・D・ロックフェラー三世は一九五二年に一族の財団の理事長となり、…古典バレエやモダン・ダンス、大学の出版局、交響楽、実験演劇などの分野に向けてロックフェラー財団の舵を大きく切った…。マーサ・グレアムからマース・カニングハム、フィリップ・ロス、フィリップ・グラスにいたるまで、現代アーティストに助成金を支給し、黒人劇作家や前衛的な劇作家にもさまざまな支援をした。しかしながら、ロックフェラー三世が文化の分野にしっかりと軸足を置くことになるのは、個人の資格で、彼個人の財団を通じて(ジョン・D・ロックフェラー三世基金)、後のNEA総裁ナンシー・ハンクスに舞台芸術についての徹底的な調査と報告書の作成を命じ、とりわけ一九五九年にリンカーン・センターを作ったことによってである。」同センターは「ニューヨーク・フィルハーモニックを始めとして、ジョージ・バランシンのニューヨーク・シティバレエ、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・ステイト・シアターの本拠地となっている。さらに芸術専門の図書館、映画史料館、ジュリアード音楽院、室内楽協会やウィントン・マルサリスのジャズ・オーケストラもある。八〇〇〇人が働き、年間予算は四億五〇〇〇万ドル。毎年三〇〇〇のイベントを行い、四七〇万人の観客を迎える。」(p. 324-325)1950年代末から1960年代にかけてのニューヨークの舞台芸術状況においても、ロックフェラー三世をはじめとするロックフェラー家とその財団がかなり重要な役割を果たしていたのは間違いない。

ちなみに、ここに登場するナンシー・ハンクスも、60年代~70年代の文化政策において中心的な役割を果たしている。ハンクスは1950年代前半からネルソン・ロックフェラーの個人的アシスタントを務め、ジョン・D・ロックフェラーの信頼を得て、1959年から69年にかけてロックフェラー財団における文化芸術部門を担った。1965年に発表されたレポート『舞台芸術 課題と展望』はジョンソン政権において全米芸術基金(NEA)が創設されるきっかけともなった。ネルソン・ロックフェラーは1969年の大統領選の共和党予備選挙でニクソンの対立候補だった。ニクソン政権発足後、NEA新総裁の候補としてジョン・D・ロックフェラー三世の名も挙がったが、本人の辞退によって実現しなかった。ニクソン政権には、元ハーヴァード大学教授でネルソン・ロックフェラーと親しく、ハンクスとともにロックフェラー兄弟基金の調査を担っていたキッシンジャーが加わっており、このキッシンジャーの推挙もあって、ハンクスは1969年にNEA総裁に任命される。ハンクスは1970年から79年にかけて、NEAの予算を840万ドルから1億ドルにまで引き上げることに成功した。にもかかわらず、ハンクスはこのNEAの最も大きな成功は「民間のリーダーシップ、民間のイニシアティヴ、民間の資金の資金を促進したこと」だとしている(p. 145-180)。このハンクスの言葉と来歴を見れば、NEAがいわばフィランソロピーの従属的存在であり、しかもそうでありつづけなければならない、という公式の了解があったことがよく分かる。

また、フォード財団の存在も非常に重要だ。フォード財団はカーネギー財団やロックフェラー財団に比べて後発だったが、芸術のなかでも演劇という分野への助成はそれまであまり行われていなかったことを知り、演劇の支援に力を注いだ。フォード財団は50年代から米国の舞台芸術状況に関する調査を進め、経済的危機を詳細に認識していた。また、助成の仕組みに関する研究開発を進め、「マッチング・ファンド」などの手法を導入。これらは全米芸術基金のモデルともなった。

フォード社の本拠地がデトロイトだったこともあり、フォード財団はとりわけ地域の劇場を重視した。だが一方で、もちろんニューヨークを無視したわけでもなく、例えばラ・ママ実験劇場の最も重要なスポンサーの一つでもある。 これらの財団の提供している資金は、全米芸術基金よりもずっと規模が大きい。

これらは、日本やヨーロッパの基準では「私立財団」ということになるが、多くの場合、創業時には資金を提供した創業者が大きく関わるものの、その後は徐々に専門家集団と新たな理事たちに運営が委ねられ、創業者からは独立していくことで、自立した公益的組織になっていく。この意味では、米国的な基準では「公共の」組織、ということになる。

シェクナーによれば、フォードやロックフェラーはあまり前衛演劇を支援しなかったというが、少なくともシェクナーはアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の財団支援を受けて、1970年以降たびたびアジア各国に赴いている。

Cf. Richard Schechner, Ford, Rockefeller, and Theatre, The Tulane Drama Review, Vol. 10, No. 1 (Autumn, 1965), pp. 23-49(まだきちんと読めていませんが・・・)

https://www.jstor.org/stable/1124678

ACCは1963年にジョン・D・ロックフェラー三世によって創立された。日本からは、60年代~80年代に限ると、山崎正和、寺山修司、笈田ヨシ、唐十郎、鈴木忠志などが助成を受けている。

http://www.asianculturalcouncil.org/japan/

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(5) 「偉大な社会」のための人文学と芸術 2017年3月21日

2.米国における実験的演劇の製作状況

(承前)

2.3.人文学と芸術

ケネディ政権は議会との対立もあり、「文化政策」を具体的に推進することはできなかったが、ジョンソンはケネディとは対照的に、議会との駆け引きに長けていた。ジョンソンは連邦政府による芸術活動への支援に対して議会の支持を得るために、「芸術」と「人文学/教育」を抱き合わせにする、という戦略を採った。ジョンソン政権のモットーは「偉大な社会(グレイト・ソサイエティ)」。就任直後の大学での演説で、ジョンソンはこう語っている。「「偉大な社会」においては、子供一人ひとりが知識を得て、精神を涵養し、才能を伸ばすことができる。…人間の営みは、身体的な欲求や商売上の必要を満たすためだけでなく、美を求める気持ちに応え、共同体の感覚を養うためにも役立つことになるのだ」。ジョンソンは「貧困に対する闘争」の一環として、教育に力を注いだ。そして大学教育における人文学振興のための全米人文基金と芸術振興のための全米芸術基金を合わせた「全米芸術人文財団」を創設させる法案を議会に提案する。これによって、「芸術」は東海岸だけの問題ではなくなり、全米の大学関係者の協力も得られるようになった。一九六五年、ついにこの法案が可決され、ホッパー、フランク・キャプラ、グレゴリー・ペックらも参列して式典が行われた。(p. 71-88)

・・・というと、非常に大きな支援が生まれたかのようだが、これだけ大がかりに演出したわりには、予算規模はそれほど大きなものではない。初年度の予算はわずか250万ドル。

THE NATIONAL ENDOWMENT FOR THE ARTS: A BRIEF CHRONOLOGY OF FEDERAL SUPPORT FOR THE ARTS

https://www.arts.gov/sites/default/files/NEAChronWeb.pdf

それから半世紀を経て、全米芸術人文財団の予算は格段に大きくなったのだが、それでも昨年の予算では全米人文科学基金と全米芸術基金の二つを合わせても約30億ドルで、連邦予算の0.003%を占めるに過ぎない。トランプが求める「偉大なアメリカ」はジョンソンのものとはだいぶ異なるらしい。彼は今年の予算案で全米芸術基金と全米人文基金の廃止を打ち出しているが、予算規模では軍事費予算の増額分523億ドルとは全く比較にならない(全米芸術基金の予算はトランプタワーの警備費用よりも小さいという)。歴代大統領が、「保守革命」を進めたレーガンですら、全米芸術基金の廃止に踏み切らなかったのは、予算規模以上に、これに手をつけると手強い相手を敵に回すことを知っていたからだ。トランプはアーティストや学者まで「既得権層」と見なし、むしろ象徴的な効果を狙っていると考えるべきだろう。これは対岸の火事と思わない方がよいかも知れない。

トランプ大統領、全米芸術基金や全米人文基金の廃止を連邦政府予算案で提案

http://dorianjesus.cocolog-nifty.com/pyon/2017/03/post-478d.html

(つづく)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(4) 外交戦略としての文化政策 2017年3月20日

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(4) 外交戦略としての文化政策

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.2.外交戦略としての文化政策

とはいえ、ケネディもジョンソンも、必ずしも文化を社会の中心に置くべきだと考えて文化政策を立案したわけではない。それに両者とも、「高尚」な、あるいは「前衛的」な芸術が好きだったわけでは全くない。フレデリック・マルテルの『超大国アメリカの文化力』が面白いのは、文化政策というものがいかにほとんどの(とりわけ米国の)政治家にとって優先順位が低いものか、ということを深く認識したうえで(自身が文化官僚として実感したことなのだろう)、それなのになぜ実行されるに至ったのか、という経緯を理解しようとしているところだ。

米国とヨーロッパのちがいを考える上で、まず何よりも重要なのは、文化芸術に対する政府関与の姿勢だろう。大まかには、少なくとも冷戦時代には、旧ソ連から東欧を経てドイツ・フランス・英国・米国と、東から西に行くに従って、舞台芸術に対する国家や地方政府の関与が弱くなっていた。米国では、文化芸術には国家(=連邦政府)は介入すべきではない、という考え方が強固に根づいている。

だが、1960年代には連邦政府の重要な方針転換があった。この時代の米国の「文化政策」をめぐる状況はけっこうややこしいので、誤解のないように、先にむりやり大きな状況を一言でまとめておくと、1960年代は連邦政府の段階的な介入もあって、舞台芸術に対するフィランソロピー、つまり民間の寄付が飛躍的に拡充した時代だった。これは一見矛盾するようだが、実はそうではない。

ケネディ政権があえて「文化政策」と呼ぶべきものに一歩踏み出すことになった理由は、2.1.で見たような国内事情よりも、むしろ外交にあった。ケネディ政権発足から数ヶ月後の1961年4月、ソ連のガガーリンがはじめての有人宇宙飛行を成功させる。当時ソ連は、自国こそ知識人と芸術家の祖国であり、アメリカには愚かなマスカルチャーしかない、と宣伝しつづけていた。それに対抗して米国国務省も、1950年代から様々な分野のアーティストや作家を世界に派遣していた。だが、1957年のスプートニク・ショックにつづき、米国が知的・文化的優越性を確信できない時代がつづく。このためもあり、ケネディは1961年6月の訪仏でフランスの文化大臣アンドレ・マルローと出会い、翌年マルローを米国に招聘する。ケネディはフランスが進める新たな国家的文化政策に注目していたのだ。(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 32-37, 342)

だが一方でケネディは、「公務員と助成制度を備えた文化行政機関を作ることには一貫して反対だった。と言うのも、そのような機関は芸術を制度化し、官僚主義を生み、創造活動のダイナミズムと芸術家の自由に害をもたらすと考えていたからである。」(p. 54)そして何よりも、米国はソ連とは異なる芸術活動のあり方を提示しなければならなかった。ケネディは暗殺の数日前に行われた詩人ロバート・フロストを讃える演説で以下のように語っている。「芸術はプロパガンダの一表現ではないことを忘れてはならない。…自由な社会において芸術は武器ではないし、芸術を論争やイデオロギーの領域に従属させてはならない。…よそでは違うのかもしれないが、民主主義社会においては、芸術家、作家、作曲家の最も大きな義務は自分自身であり続けることである。」(p. 33)ケネディ政権で大統領特別補佐官として文化政策を担ったアーサー・シュレジンガーも、戦後間もなくアメリカ共産党批判を展開したことで知られる自称「反スターリン主義リベラル」の中道左派知識人で、「全体主義的な方法論を採らずに、いかにして全体主義と戦うのか」というのがシュレジンガーにとって重要な政治的テーマの一つだった(p. 25)。この意味で、ケネディ政権においては、フランスのように「国立劇場」をつくってそこを舞台芸術活動の拠点にする、というのは全く問題外だった。(のちの「舞台芸術のためのジョン・F・ケネディ・センター」は必ずしもケネディが構想したものではない。)

ケネディ暗殺によって突如大統領となったジョンソンも、特に文化芸術に興味があったわけではない。ジョンソンは知識人や芸術家が多いボストン育ちのケネディとは異なり、テキサスの農村地帯に生まれ、南部を地盤としていた。ケネディから引き継がれた特別補佐官シュレジンガーはジョンソンに、連邦政府が文化芸術に介入することで「政府と芸術家・知識人コミュニティーとの結びつきを強めることを可能にしますし、このことは(翌年予定されている)大統領選挙の勝敗が、ニューヨーク州、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、イリノイ州、ミシガン州で誰が勝利するかにかかっている以上、無視できないことです」と進言した(ちなみに今回全米芸術基金の廃止を提案しているトランプは、民主党の地盤であるニューヨーク州、イリノイ州では敗北したが、ペンシルバニア州、カリフォルニア州、ミシガン州では僅差で勝利している)。ジョンソンは1964年4月、新たな文化補佐官にブロードウェイのプロデューサーとして知られたロジャー・スティーヴンズを指名し、新たな「文化政策」の基軸を示す。同年11月には大統領選に勝利し、就任式にはジャスパー・ジョーンズ、ホッパーなどの画家、アルヴィン・エイリー、マーサ・グレアムなどの振付家が招待された。さらにストラヴィンスキー、アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、バランシン、ヌレエフなどロシア系や旧ソ連出身のアーティストを並べて、「自由主義陣営」の卓越性を示そうとした(p. 62-65)。

まとめておけば、この時代に文化芸術が(多少なりとも)重視された主な理由は三つあった。まず第一に、ソ連に対する優越性を示すこと。第二に、「文化芸術」への関心が強い(そして往々にして政権に対して波風を立てがちな)知識人を味方につけること。最後に、ここでは触れなかったが、「文化芸術」というセクターの経済規模が注目されはじめたこと。はじめの二つの背景にはもちろん、ケネディ・ジョンソン両政権が拡大させていったヴェトナム戦争への介入もある。この戦略は次第にジレンマに陥ることにもなるが、その話は追って。

ここで注目しておくべきなのは、ジャスパー・ジョーンズやマーク・ロスコといった抽象表現主義の画家がすでに米国独自の「前衛」を国家的に代表するアイコンとして選択されていたことだろう。一方で、ここでは「卓越性」を示すのが目的なので、勃興しつつある若者文化・マイノリティ文化はほとんど取り上げられていない。むしろ「優れた文化」を庶民へ、という上から下への構図が当然の前提となっている。この構図が、ジョンソン政権で、芸術振興が「教育」の一環として進められていく背景にある。

(つづく)

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(3) 舞台芸術の構造的危機 2017年3月19日

(承前)

2.米国における実験的演劇の製作状況

2.1.舞台芸術の構造的危機

まずはアーティストの視点から見ていこう。以下のイヴォンヌ・レイナーの言葉が、この時代のニューヨークの実験的な舞台芸術の経済状況とその変化を端的に示している。

「ニューヨークで生活することの経済的な負担が、・・・自分たちがやっていることによってみずからの生活を維持することへのいかなる期待をも抱かないことを許したのです。成功は人が招待された展覧会の数ではなく、仲間内での尊敬によって測られていました。・・・市場経済に乗せることのできる売買可能な品物を作ることからくるプレッシャーは、ダンスの制作においてまったく欠如していました。これは私たちを金銭的報酬の可能性から自由に――そして幸福にもそれを忘却しながら――制作することを許したもうひとつの要因でした。

私があなたに見せびらかしている「古き良き時代」は、だいたい1960年から64年のあいだのほんの数年しか続かなかったことを認めなければなりません。その後には全面的なディアスポラが――地理的にも職業的にも――起こりました。アーティストたちは自分のギャラリーと教職を見つけ、コレオグラファーたちはカンパニーと役員会によってみずからを制度化しはじめました。これは前衛の活動がたどる一般的な道筋のようです。」

若いアーティストへの手紙/イヴォンヌ・レイナー(訳:中井悠)

http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html

この「1960年から64年」というのは、ほぼケネディ政権に相当する。この表現から、1965年に大きな変化があったことが見えてくるが、まずはケネディ政権下の芸術活動の状況を見ていこう。以下、主にフレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から(ほとんど読書メモです)。

米国では1960年代初頭、文化的活動と芸術鑑賞の機会が増え、「文化ブーム」という言葉が流行していた。五〇〇〇の劇団、七五四のオペラカンパニー、二〇〇のダンスカンパニーがあり、美術館・博物館もほぼ一〇年で四倍に増えた。ケネディも「野球の試合に行く人よりも音楽会に行く人の方が多い」と繰り返し語っている。だが、このうちプロといえる劇団や楽団はそれほど多くなかった(マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 31)。レイナーの言葉からも見えるように、ブロードウェイなどのいくつかの限られた場所以外では、舞台芸術を職業として生きていくということが考えられる状況ではなかった。

とはいえ、「文化ブーム」のなかで需要は喚起されたものの、プロとしての舞台芸術家を雇用している特権的な場所においてすら、労働環境はかなり厳しかった。それが露呈したのが1961年のメトロポリタン・オペラの労働争議である。同年夏、低賃金を不服とする音楽家たちがストライキに突入。経営陣は「幕が上がるたびに」赤字が嵩む、とし、労働組合の交渉も不調に終わる。シーズンが中止され、500人が解雇の危機にさらされた。スター歌手たちに懇願されたケネディは労働長官アーサー・ゴールドバーグに調停を命じ、この種の社会紛争にはじめて連邦政府が介入することになった。不満は国内の他のオーケストラにも広がっていた。

ゴールドバーグはこれが構造的問題であることを認め、「民間」の文化施設に対する公的助成という考えをはじめて提示し、入場料収入とフィランソロピーという伝統的財源のほかに、営利企業・労働組合・州や都市・連邦政府の六つの異なる財源から資金を獲得することで収支を均衡させ、同時に創造の自由と多様性を確保すべきだとした。この「ゴールドバーグ宣言」が画期的だったのは、「連邦政府」が民間の芸術活動の財源の一つとなる可能性を提示したことだった。ゴールドバーグは文化分野への支援を検討するために「連邦芸術諮問会議」の設置を提案した。このあと、1962年夏に、ケネディは大統領特別補佐官シュレジンガーと特別文化補佐官アウグスト・ヘクシャーに、現在連邦政府や州政府が行っている文化に関する施策、ヨーロッパで行われている文化政策、芸術のための免税制度等について詳細な調査を依頼した。ヘクシャーは1963年6月に詳細な報告書を提出し、芸術家・文化機関に助成金を交付する連邦機関「全米芸術財団」の設置を提言した。同月、「連邦芸術諮問会議」も創設されることになった。これらはメディアからは評価されたが、ケネディは議会との関係に苦慮しつづけ、芸術支援事業を法制化するには至らなかった。ケネディは同年11月に暗殺される(p. 46-48)。

つづくジョンソン政権の時代に、舞台芸術の危機的状況をより俯瞰的に示す重要なレポートがいくつか発表される。一つは二人の若手経済学者ウィリアム・J・ボウモル、ウィリアム・G・ボウエンによる『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(原著刊行は1966年、邦訳1994年、池上 惇・渡辺守章監訳)。大量生産時代にあって、舞台公演は手作りでしか成り立たないという特異性があり、「だれも、45分間のシューベルトのカルテットを演奏する労働コストを削減することはできない」。そのために、今日の舞台芸術は慢性的な危機状況にある。赤字を埋めるためには今後10年間で入場料を70%上げなければならないが、そうすると観客が減り、さらに一席あたりのコストがさらに増大するという悪循環を招く。唯一の解決策は観客数の母集団を引き上げること。この時点ではまだ舞台公演はほとんど大都市に限られてきたが、地方での公演を増やし、庶民やマイノリティの観客にも芸術を開放することが必要だ、と主張した。同時期に発表されたロックフェラー兄弟基金による報告書も、プロの実演家となることが困難な状況にあることを指摘し、「文化の民主化と芸術的質の両立」を目指すべきだとしている。そして、フィランソロピーだけが芸術家の自由を保つことができる、としながらも、州や市の助成金拡大を促し、さらにはじめて連邦政府にも支援を呼びかけることを提案している。以下の言葉は、「文化の民主化」という新たな思想を端的に表している。「芸術はごく少数の特権階級のためのものではなく、万人に開かれていなければならない。…文化が占める位置は、社会の周縁ではなく中心である。文化は娯楽の一つの形態ではなく、我々の福祉と幸福に欠くことができないものだからである。」

これと並行して、アーティスト側の意識も変化しはじめる。オーケストラ・美術館・博物館などは芸術活動の自由を護るために公的助成に激しく反対してきたが、1960年代に財政的安定が崩れると、より開かれた態度を示すようになる。そして劇場連絡協議会、オペラ・アメリカ、ダンスUSAなど専門団体の組織化がフォード財団やロックフェラー財団の支援を受けて進み、労働組合とともにロビー活動をはじめるようになる。これらもケネディ・ジョンソン政権が芸術活動の支援を構想する背景となった。(p. 67-71)

(つづく)

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(3) 舞台芸術の構造的危機 へのコメントはまだありません

米国におけるtheatreとtheater 2017年3月18日

そういえば米国に行ってみて、一つ積年の謎が解けた。静岡県舞台芸術センターと静岡芸術劇場の英語表記について。Shizuoka Performing Arts Center, Shizuoka Arts Theatreと、なぜCenterはerで、Theatreはreなのか?どちらも英国ではer、米国ではreと、学校では習っていたので、ずっと不思議に思っていた。

実際には事態はより複雑だった。演劇/劇場については、米国でもtheatreとtheaterの両方の表記が混在している。この使い分けは、結局のところ統一の基準があるわけではなく、人によって様々のようだが、こんな話がある。以下、フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』から、ケネディの文化特別補佐官だったアーサー・シュレジンガーについて。

「演劇ファンと言っても、実のところシュレジンガーはミュージカルの熱烈なファンだったのだ。彼が回顧録で一九三〇年代の歌について語るとき、読み手には彼の熱い気持ちが伝わってくる。だが同時に彼の劣等感も読み取れる。偉大なる英国演劇に対して、アメリカでは「シリアスな」演劇が主流とならない現実。シェイクスピアに対して、ミュージカルがもたらす安易な喜び。これらを考えあわせた時、シュレジンガーはいささか引け目を感じていたようだ。そんな時彼は、アメリカの「演劇(Theater)」は英国の貴族的でエリート主義の「演劇(Theatre)」とは異なり、民衆により近いものなのだと自分に言い聞かせた。だからこそ、彼は「プロレタリア的な」作品を賞賛するのである。」(p. 22)

これはもちろんフランス人外交官の意地悪な分析なので、シュレジンガーが本当にミュージカルにそんなに「引け目を感じて」いたかは定かではないが、少なくとも英国的な「演劇」と、より米国的な「演劇」(とりわけミュージカル)とが、米国である程度共存していることも読み取れる。英語のtheatre/theaterはフランス語のthéâtreから来ているので、reの方がヨーロッパ的なのに対して、erの方が英語の発音の論理に忠実で、英国ではあまり使われない分、より米国の独自性が主張できるわけだ。

実際に現在の米国の劇場を見ると、ミュージカル劇場や映画館ではよくtheaterが使われているのに対して、非営利のより「シリアス」で「芸術的」な劇場では、基本的にはtheatreが使われている場合が多い。(以下にシカゴの劇場の例を。)

だとすれば、「静岡芸術劇場」は、米国の文脈でも、やはりarts theatreでなければならない、というわけなのだろう。

Victory Gardens Biograph Theater, 今は劇場として使われているが、元は映画館だった

Goodman Theatre, シカゴを代表するレパートリー・シアターの一つ

Harris Theater, ダンスや音楽がメインの劇場

Steppenwolf Theatre Comapny, シカゴを代表するもう一つのレパートリー・シアター

ノースウェスタン大学演劇科、もちろんtheatre

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1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(2) 米国演劇における「前衛」とは何か

以下、すっかり出しそびれていましたが、全米芸術基金(NEA)予算削減/廃止問題で米国の文化政策への注目が集まっている(?)うちに…。

(承前、2016年112日の「1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(1) フランスの状況と米仏関係」 https://goo.gl/Kbvkmi につづく )

ちょっと話が戻るが、なぜここで米仏の事情を取り上げているかというと、1970年代以降に米国でパフォーマンス・スタディーズが研究対象としてアジアの演劇を取り上げていくことと、同時代にフランスで太陽劇団やピーター・ブルックが実践的にアジア演劇に触れていくことは、一見似ているが、実は文脈がだいぶ異なっていた、という話をしたかったのだった。大まかにいえば、一方は「前衛演劇」、もう一方は「民衆演劇」という枠組が前提になっていたわけである。これは1970年代以降、米仏の演劇交流が少なくなっていった理由の一つだろう。では、なぜ米国では「前衛演劇」という枠組が重要だったのか。

(もう一つ米国において重要なのは、「前衛演劇」の系譜においては多くの場合言及されることのない、アジア系米国人による演劇の歴史が並行してあるということだが、これについてはここではあまり触れない。また、いわばこの間にあるのがバルバの「文化人類学的演劇」だろうが、これについてもここでは触れずにおく。)

0.米国演劇における「前衛」とは何か

もう少し問題の焦点を絞っておこう。フランスでは60年代以降「前衛演劇」という枠組みが参照されなくなっていくのに対して、米国ではなぜ70年代に至るまでそれが存続したのか。あるいは、今に至るまで「前衛演劇」というモデルが存続しつづけているのか。

まずは米国の文脈において、「前衛」とは何かを確認しておこう。クリストファー・イネス(『アヴァンギャルド・シアター 〈1892-1992〉』、原著1993年刊)では、「前衛」という概念の参照項として、マルクス、バクーニン、ポッジョーリ、ビュルガーを挙げている。つまりこの言葉は共産主義や無政府主義における革命という概念と結びついていた。残る二人は革命家ではなく、1960年代以降に活躍した研究者・批評家である(レナート・ポッジョーリ『アヴァンギャルド芸術の理論』イタリア語版1962年/英訳1971年、ペーター・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』(ドイツ語版1974年)。これらは60年代の演劇活動自体に大きな影響を与えたわけではない。ここで重要なのは、ここで挙げられている四人が全員ヨーロッパの出身だということだ。Avant-gardeという言葉は、フランス語がそのまま使われていることからも分かるように、ヨーロッパの近代芸術史との接続を示す概念であり、アメリカ固有の歴史に根ざすものではない。より英語固有のvanguardという単語もあり、「ヴィレッジ・ヴァンガード」(ニューヨークのジャズクラブ、1935年創業)などで使われることはあるものの、この文脈ではむしろavant-gardeが使われる。ここには、東海岸知識人のヨーロッパ文化に対する憧憬と愛着が表れている。

だが共産主義や無政府主義の文脈において使われてきた概念が、なぜ冷戦下の米国においてこれほど重要なものでありえたのか。それには少し歴史的文脈を知っておく必要がある。米国における「前衛」美術・演劇の歴史においてはガートルード・スタインが果たした役割が大きい。スタインは1903年から1914年にパリに滞在し、前衛芸術運動に深く関わった。そしてアーティストたちのパトロンとなって、米国に多くの作品をもたらした。これは米国のコレクターにも影響を与え、同時代のヨーロッパ作品が数多く米国に渡るきっかけともなった。さらには第二次大戦中、米国はデュシャン、ブレヒト、クルト・ヴァイルなど、多くのアーティストを亡命者として受け入れることとなる。つまり、米国は少なからず、ヨーロッパで危機的状況にあった「前衛芸術」の救世主ともなったのである。

1960年代は、「文化ブーム」の時代であると同時にテレビの時代でもあった。ケネディ・ジョンソン政権下の文化政策は、マス・カルチャーの圧倒的な隆盛に対して、いかにしてハイ・カルチャーを保護するか、という視点から考えられていた。冷戦下の外交上の理由からも、いかにして米国の「自由」な環境が(ソ連やあるいはヨーロッパよりも)「卓越した」芸術を生み出しうるのか、ということを示す必要があったのである。

米国のアヴァンギャルド・シアターは、マス・カルチャーでもハイ・カルチャーでもないカウンター・カルチャーを生み出そうとしていた。だが一方で、この動きを主導したアーティストの多くは東海岸知識人の系譜に連なり、ヨーロッパの近代演劇史を強く意識していた。リヴィング・シアターやオープン・シアターがアメリカ式の(「大衆的演劇」といったニュアンスを持つ)theaterではなくヨーロッパ式のtheatreを使っていたことはこの系譜的意識を象徴している。(ちなみに、例えばネイチャー・シアター・オブ・オクラホマは、主にtheaterを使っている。)ヨーロッパの歴史的アヴァンギャルドとこの米国演劇界の動きの共通点は、純粋芸術を否定し、社会運動としての側面を重視していることである。つまり、米国のアヴァンギャルド・シアターは、純粋芸術でもなければ、大衆的演劇でもない。一方で、フランス的「民衆演劇」の理念を共有しているわけでもない。では米国の前衛演劇はどのような意味で「社会運動」なのか、というのは、かなりややこしい問題だが、追って少しずつ見ていこう。

70年代に至るまで、というのは、1980年代初頭にはリチャード・シェクナーが一度「前衛演劇」の終焉を宣告しているからだ。演出家の権威が失われ、パフォーマーが演出家に従わなくなったという。80年代以降、劇団による活動よりもパフォーマーが個人として行う「パフォーマンス」が盛んになっていき、また「プロフェッショナル」としての技術自体が疑われるようになり、アマチュアとの境界もあいまいになっていく。ここにはシェクナー自身が創始したパフォーマンス・スタディーズの影響も見ることができるだろう。

80年代~90年代以降にもジョン・ジェスラン(1951~)やレザ・アブドー(1963~1995)など「前衛」の系譜に連なるような演出家が出現するが、たとえばイラン出身のアブドーは明確に「前衛」というレッテルを拒否し、「自分がやっているのは大衆的なエンターテインメントだ」と主張していた(Arnold Aronson, American Avant-Garde Theatre: A History, Routledge, 2000, p. 181-197による)。この背景には、連邦政府の方針転換もあるだろう。1981年に発足したレーガン政権で全米芸術基金(NEA)の事業計画において大きな役割を果たした保守派の美術批評家ルーズ・ベレンソンは、「私たちの文化の保守的な面が(全米芸術基金においては)まったく見えない。・・・前衛あるいは自称前衛は、一種のアカデミーになってしまった」と発言している(フレデリック・マルテル『超大国アメリカの文化力』p. 261)。

だが一方で、今でも「前衛演劇」は米国において重要な参照項ではありつづけている。その理由の一つとしては、ウースター・グループやリヴィング・シアターといった60年代~70年代に活躍した劇団がまだ活動をつづけているということがある。リチャード・シェクナーもロバート・ウィルソンもまだ演出家として現役だし、リチャード・フォアマンは最近活動を停止したばかりだ。だが、フランスでも太陽劇団やピーター・ブルックはまだ健在であり、焦点はむしろ、なぜフランスではこれらを「前衛」とは名指さなくなったのに対して、米国ではこの概念が使われつづけているのか、ということだ。

さらに問題を先取りしておけば、だからといって、1960年代において米仏の個々の演劇人の表現がどの程度「前衛的」で、どの程度「民衆的」だったか、というのはまた別の問題だということだ(また、「民衆」とは誰か、というのもさらに別の大きな問題である)。たとえば1968年において、リヴィング・シアターはパリの学生とともにオデオン座占拠に加わり、またアヴィニョン演劇祭において『パラダイス・ナウ』の上演中止を機に、学生たちとともに演劇祭の運営側と対立している。このなかで、「民衆演劇」運動を主導していたアヴィニョン演劇祭創立者のジャン・ヴィラールやオデオン座支配人だったジャン=ルイ・バローは、むしろ国家の支援を受けた既得権層と見なされるに至る。皮肉にも、少なくとも五月革命に加わったフランスの学生たちにとっては、フランスの「民衆演劇」よりも米国の「前衛演劇」の方が親近感を持てる存在だったわけである。

だが、1960年代に生まれるこの米仏演劇史の差異は、1970年代以降の流れを決定づけ、それ以降は米仏演劇史がほとんど交叉しなくなるに至る。これは「世界演劇史」を考える上でも、重要な出来事だと思われる。

以下、このような事態に至った原因を、理念よりもむしろ米国における舞台芸術の制作状況と文化政策にもとづいて考えてみたい。

(つづく)

1960年代米仏の実験的演劇の製作状況について(2) 米国演劇における「前衛」とは何か へのコメントはまだありません
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ハバナ滞在記(3) キューバの舞台芸術事情 2017年3月17日

ようやく少し、舞台の話も。キューバの舞台芸術製作事情について。劇場は基本的に国営で、俳優やダンサーは基本的に文化省から給料をもらっている。というと、旧ソ連・東欧や中国のような共産圏の国立劇場システムを思い浮かべてしまうが、よく聞いてみると、だいぶ事情が異なる。

ハバナで「国立劇場」といえば、アリシア・アロンソ・ハバナ大劇場(Gran Teatro de La Habana «ALICIA ALONSO»)。主にオペラやバレエを上演している。1915年、莫大な建設費がつぎ込まれて落成した巨大で華やかな建築。今はキューバを代表するバレリーナ、アリシア・アロンソの名が冠せられ、オペラやダンスやクラシック音楽を中心とする劇場となっている。アリシア・アロンソは72歳まで現役で、目が見えなくなっても『カルメン』などを踊りつづけた。今では95歳になっているが、なお劇場に足を運びつづけている。目が見えなくても、振付家に意見を聞かれると、「今日はあのダンサーのステップが違った」などと指摘するという。ガイドツアーに参加したら、オペラの練習風景も見ることができた。ガイドさんが若手のオペラ歌手だそうで、ときどき歌を口ずさんでいるのを聞いてリクエストしたら、よく響くホワイエで短い曲を歌ってくれて、うれしかった。今回は残念ながらここでは作品が見られなかった。

アリシア・アロンソ

ハバナ大劇場

アリシア・アロンソが立ち上げたバレエ・カンパニーは1955年に「国立バレエ団」となった。同様に、キューバの演劇界では、劇場が先にあるのではなく、まずは「劇団」らしい。その劇団が自ら劇場を作ったり、既存の劇場をカスタマイズして使ったりして、活動が成功したものは、国がその劇場を「国立劇場」として支援したり、新たに劇場を貸し与えたりする。今回話を聞くことができた劇団の多くは、国営の劇場の一つを占有使用している。

一番典型的かつ重要な例はテアトロ・ブエンディーア(Teatro Buendía)だろう。ブエンディーアは2012年にロンドンのグローブ座で37カ国からシェイクスピアの37作品を上演したワールド・シェイクスピア・フェスティバルで『(もう一つの)テンペスト』を上演している。この劇団は1980年代に演出家フロラ・ラウテン(Flora Lauten, director)と劇作家ラケル・カリオ(Raquel Carrió)によって創立。フロラはキューバ革命直後、1960年にミス・キューバとなり、革命政権の宣伝のために世界中を回った経験があって、キューバでは有名人だ。ラケルは1976年にハバナの国立芸術大学演劇科の創立に関わり、フロラとはそのときから一緒に仕事をしている。演劇科の卒業生が舞台に立てる場を作るためも考え、廃墟となっていたギリシア正教会を、元学生たちとともに改修して劇場にしていた。だが昨年、隣の大木が朽ちて倒れ、屋根と給水タンクが壊れてしまい、復旧の見込みは立っていないという。

劇団が公演する際には、劇場と衣裳製作費等、一定の製作費が与えられるが、数百CUC程度。多くの場合、それだけでは足りないので、それ以外にもスポンサーを探すことになる。たとえばテアトロ・エル・プブリコの公演の場合、ノルウェー大使館やドイツ大使館の他、いくつかのお店などかがスポンサーになっている。俳優もダンサーも、月給は20CUC(=20USドル)前後らしい。基本的には副業をせずに、なんとかその仕事のみで生活をしているという(どうやって?と思わないでもないが・・・)。ダンスの方が観客は多く、ダンサーは比較的仕事があるが、演劇の場合には仕事を見つけるのはそれほど容易ではない。ダンサーは30代後半になると、生活に不安を感じて、外国に行ってしまうケースが少なくないという。演劇の場合はダンスよりも年齢に見合った仕事が見つかりやすく、米国では言葉の問題もあるために、ダンサーよりも国外に出ることが選択肢とはなりにくいのだろう。

キューバ演劇は、今回知った限りでは、米国と違ってほとんどリアリズム的な演技が見られず、その意味ではむしろヨーロッパ的な感じがする。劇団制度があって、一応生活が保障されているため、俳優のレベルというか、作品への打ち込み度も米国よりも高い印象がある。全て国営なのに、かなり体制批判的な作品も作られているのが、ちょっと不思議な気もする。中国などのように脚本を事前検閲する制度はない。テレビの検閲は厳しいが、演劇はマスメディアではないので、かなりセンシティブな問題に触れることも比較的容認されているという。批評家が専門家としての立場でそれを支持することで、政府も内容に介入しにくくなっている。マスメディアが触れられないことに触れられるからこそ、人気劇団の公演は何ヶ月もにわたって毎週末満員になっているのだろう。ただし、内容によって上演中止になることはある。作る側は、だいたいどれくらいまでなら大丈夫か、よく分かっているらしい。今回唯一実際に見ることができたテアトロ・エル・プブリコの新作『ハリー・ポッター』(!)は、オバマ、トランプ、ヒラリーが出てきて、キューバ政治への強烈な皮肉もあり、政治的にもセクシャルな表現についても、かなり過激な作品だった。なんで『ハリー・ポッター』なんだ?と演出家のカルロス・ディアスに聞いてみたら、「キューバで生きていくには魔法が必要なんだ」とニヤリ。たしかに・・・。

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オーストラリア先住民芸術とアジアの舞台芸術 2017年3月10日

振り返ってみると、メルボルンで行われた今回のAPP(Asian Producers Platform)キャンプは私にとって特別な意味を持っていたような気がする。四回参加したことで見えてきたことがあった。

APPキャンプ2017について

https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/perform/oversea/2017/02-02.html

今回のグループリサーチでは「先住民芸術 未来の顔は?Indigenous Arts ― The Face of the Future?」というテーマのグループに参加した。オーストラリアには以前にもAPAMで来たことがあったが、先住民(いわゆるアボリジニとトレス海峡島嶼人)のプロデューサーやアーティストと直接話すことができたのは初めてだった。リサーチグループのリーダーのドリーナもマオリ系で、ニュージーランドで先住民によるダンスグループを立ち上げていた人で、当事者としてこの問題にかかわっている。

私がこれまで見てきたオーストラリア先住民アーティストによる作品は白人のプロデューサーによるものだったが、今回プロデューサーたちは、先住民としての立場から先住民アーティストの作品をプロデュースすることにこだわり、それによって作品をつくる枠組み自体を変えていこうとしている。私はこれまで先住民アーティストによる作品製作に「真剣に」関わってきた白人のプロデューサーたちを何人か知っていたので、この話を聞いて、はじめは今一つ意義が分からなかったが、具体例を聞いているうちに、何が問題なのかが少し見えてきた。

例えば、映画製作のための助成金申請には、通常スクリプトを提出する必要がある。だが、先住民アーティストたちはスクリプトを提出することを好まない。それでもプロデューサーは、彼/女たちが素晴らしい作品を作るアーティストであることを知っているので、それを信頼して、スクリプトなしで助成金が得られるように助成団体を説得することに成功した。

オーストラリア先住民には、ビジュアルアート、ダンス、音楽、演劇等々といったジャンルの概念はない。一口に「アボリジニ」といっても、言語も文化も部族によって全く異なるが、今回訪れたヴィクトリア州の先住民クリン人(Kulin Nation)は、これらを全て、物語を語るための手段と考えている。アボリジニには「ドリームタイム」という概念があるとされている(正確には、アボリジニのいくつかの部族の話から西洋人の人類学者が抽出した概念、といったところだが)。全てのものが生成し、名前がつけられていく時間。この過程には完成はなく、つねにつづいていく。だから、作品の完成という概念もない。すべては常にクリエーションの過程にある。時間の概念が異なるので、タイムキープや予算管理では、いわゆる近代的な、あるいは西洋的なアプローチとは全く違う方法を取る必要がある。

すべてはアーティスト本人と直接の信頼関係を築くことにある、と彼/女たちは語る。書類やお金やテクノロジーを媒介とせず、人と人との関係を築くこと。とにかくこの人なら、最後には何かすばらしいものを見せてくれるはずだと信頼すること。お互いにそれができるようになるには、時間をかけて、真に人間同士の関係を築く必要がある。もちろん同時に、家族や友達も大事にしなければいけない。だがアーティストも友人の一人なので、それは切り離せないもの。ときには職場に子どもを連れて行って、アーティストたちと一緒に時間を過ごすこともあるという。

非先住民のプロデューサーであれば、既存の西洋的な枠組みに適応させるための妥協をしてしまいがちなところで、今回会ったプロデューサーたちは、先住民の立場や考え方にこだわり、新たな枠組みを作り出そうとしている。「メルボルン先住民芸術祭Melbourne Indigenous Arts Festival」のディレクターとなった先住民系のプロデューサー、ジェイコブ・ボエム(Jacob Boehm)はフェスティバルの名前を「イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバル(YIRRAMBOI First Nations Arts Festival)」に変更した。「イーランボイ」はクーリン人の言葉で「明日」を意味する。ジェイコブとメルボルン市長は、この地域の6万年の歴史を見つめつつ、ともに「明日」を夢見ていこう、と呼びかける。

イーランボイ・ファースト・ネーションズ・アーツ・フェスティバルについて

http://yirramboi.net.au/about/

http://www.melbourne.vic.gov.au/news-and-media/Pages/updates-alerts.aspx

いろいろ話を聞いているうちに、西洋近代が作ってきた芸術という枠組みを越えていける可能性がここにあるような気すらしてきた。

六ヶ月ぶりに静岡に戻って、ちょっとほっとしたのは、まだここには顔の見える関係がある、と感じたからだ。「七間町ハプニング」のあいだに街を歩いていると、あちこちで知った顔を見つけ、声をかけてもらえる。パフォーマンスがあれば、同じ人に同じ場所で、同じ時間に出会うことで、会話が生まれ、束の間の共同性が生まれる。静岡市は2015年の「官能都市」(魅力的な街)ランキングで全国12位。東京・大阪を除けば、金沢市に次ぐ2位と評価された。

七間町ハプニング

http://www.c-c-c.or.jp/schedule/2017/02/post-18.html

「官能都市」ランキング

https://www.atpress.ne.jp/news/72741

人が人を魅了し、それが束の間の贈り物となって、複数の人の間に共同性を生んでいく。この「魅力」という「贈り物」のことを、ヨーロッパでは「優美(kharis, gratia, grâce…)」と呼んでいた。私が研究対象としてきた西洋演技論においては、この「優美」という概念が重要な位置を占めている。実はこの概念は、貨幣や書面での契約によらない、人と人との直接の信頼関係の礎となるような贈与を表す概念でもある。それが転用されて、舞台芸術のパフォーマーが観客を魅了する力を表すようになっていく。つまり舞台芸術はそもそも、このような第三項を媒介としない身体と身体との関係を築くものと考えられていた。それが近代になり、口承空間に代わって書記空間が社会のなかで重要な位置を占めるようになっていくなかで、第三項としてのテクストが主要な位置を占めるドラマというジャンルが立ち現れてくる。そのなかで、「優美」という概念がテクストの媒介者としての身体がもつ魅力へと、さらに転用されていくこととなる。

この流れは国民国家の生成とも重なっている。ラテン語に代わり、一定の地域で使われていた口語であった俗語が出版言語となり、やがて絶対王政のなかで国家語へと体裁を整えていく。このなかで、口承文化としての演劇もまた、宮廷と結託したアカデミーのお墨付きを得たテクストによって媒介されることになっていく。これはコミュニティの規模の問題でもある。口語はレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」(顔が見える関係でつながっている社会)を越えられないのに対して、出版言語はそれを越えた規模の「非真正な社会」、アンダーソンのいう「想像の共同体」を築くことができる。

これに適合したのが、アリストテレス『詩学』に見えるテクスト中心主義だった。アテナイという出身ポリスを拠点とすることができたプラトンに対して、マケドニア出身のアリストテレスはアテナイにおいて、ある種の普遍主義を唱えざるをえなかった。口承文化への郷愁が色濃いプラトンに対して、アリストテレスは、地域と時間を越えるテクストの客観性を主張せざるをえなかった。これがマケドニア帝国主義のイデオロギー的根拠の一つとなり、「ギリシア語」を共通語とするヘレニズム世界が成立していく。

今の時代は、地中海世界の中心がギリシアからローマへと移っていったヘレニズム時代の後期とよく似ている気がする。世界経済の重心が移行していく中で、世界観や価値観も移り変わっていく。ここ数世紀の間、西ヨーロッパで培われてきた価値観が世界を覆ってきたが、これに伴って、新たな価値観が必要とされてきている。だが、それはまだ見つかったわけではない。新しい価値観は、おそらくまだこれから何世紀もかけて作り上げられていくのだろう。その中で、アジア太平洋地域のいろいろな現場で活動している人々が一同に集まって、一週間のあいだ、これからの舞台芸術のあり方について話し合うというのは、すぐに目覚ましい結果が出るものではないにしても、これまであまりなかっただけに、とても貴重な機会だと思う。

APPは来年以降も存続していくことになった。次回以降はより多くの人に開かれたものになりそうだ。日本からもより多くの人が参加してくれるものになることを願っている。

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ハバナ滞在記(2) 米国とキューバ、二重の歴史と二重経済 2017年2月20日

20世紀後半のキューバの歴史は、視点によって、大きく分けて、三つくらいはあるだろう。フィデル・カストロが英雄であった歴史。フィデルが悪夢だった歴史。そしてフィデルが英雄から悪夢となった歴史。大まかには、キューバ革命政府とその支持者から見た歴史、米国と在米亡命キューバ人の多数派から見た歴史、そして革命政府にはじめ期待を寄せ、のちに幻滅した人々(1962年以降に亡命したキューバ人も含む)から見た歴史に対応する。このうち第一の人々と第二の人々が出会う機会は、この半世紀間ほとんどなかった。ハバナで出会ったある演劇人が「もし革命後に出て行ったキューバ人たちが、ずっとこの国に留まってくれていたとすれば、今頃キューバはどんな国になっていただろう、と考えてしまう」と語っていた。今、そのキューバ人たちが少しずつ国に戻ってきつつある。キューバの人々は、この状況をどんな気持ちで眺めているのだろうか。

オースティンやメキシコシティで出会ったキューバ系米国人たちの何人かが、「1961年に米国に来た」と話していた。キューバ革命が起き、親米政権が倒されたのは1959年1月。フィデルは当初、米国との関係を保つことを模索し、同年4月にワシントンDCを訪れたが、アイゼンハワー大統領には会えず、ニクソン副大統領と会見。この時点ではまだ革命政権は明確に反米路線を取っていたわけではなかった。米国はやがてフィデルを「容共的」と見なし、暗殺と政権の転覆を謀っていく。1961年には米国に亡命していたキューバ人を中心とするキューバ侵攻(ピッグス湾事件/プラヤ・ヒロン侵攻事件)があり、革命政権によって撃退されている。その後、カストロは二年前の革命が社会主義革命であったと表明し、ソ連との結びつきを強めていき、翌年のキューバ危機へと至る。このとき米国に亡命した人々の多くは、カストロ政権は何年も持たないと考えていたという。

それから半世紀以上が経った今、二国間の演劇交流を支えているのは主に、革命自体の記憶を持たない世代となりつつある。第二世代のキューバ系米国人たちは、「祖国」キューバに対して、かなり複雑な思いを抱いている。美しい国、貧しい国。キューバの現政権に対しては当然批判的だが、キューバが米国経済に呑み込まれていくことを単純に肯定しているわけでもない。米国で育ったキューバ系米国人アーティストたちは、米国が夢の国ではないことを身に沁みて知っている。一方でキューバに住むアーティストたちが米国に行くことを夢見ていることもよく知っている。キューバが米国と接近することへの期待と、キューバが米国化していくことへの不安。米国はキューバにとって救世主なのか、あるいは侵略者なのか。キューバ人一人一人にとっても、この二つの顔が同時に、様々な度合いで見えている。これは米国とアジアの少なからぬ国との関係においても同様かも知れない。

キューバは1898年の米西戦争によってスペインから解放され、1902年に米国から独立を果たすが、グアンタナモ湾は永久租借地となり、今でも米国の軍事基地がある。ハバナの街中では今でも革命前に持ち込まれた派手なアメリカ車が現役で走っている。米国人にとって、キューバ文化はエキゾチックかつノスタルジックな、近くて遠い文化だ。それには大きな商品価値があり、それに比して、今のところはキューバの人件費は圧倒的に安い。これが米国経済に組み込まれていくと、どうなっていくのか。すでにキューバには米国からの観光客が大挙して押し寄せている。かつてはヨーロッパ系の観光客が主流だったが、七年くらい前から米国人が増えてきて、ここ二年ほどで米国人が圧倒的多数になったと聞く。

キューバが米国との国交を回復せざるを得なくなった最大の理由は、ベネズエラの経済危機にある。カストロを師と仰いでいたベネズエラのチャベス前大統領は、ソ連の崩壊で苦境に立っていたキューバに、ベネズエラの原油を安価で供給していた。だがチャベスは2013年に死去し、2014年には原油価格が急落して、原油輸出に依存していたベネズエラ経済は破綻し、キューバへの原油供給も滞っていく。この原油急落の引き金となったのが米国のシェールガス革命だった。米国は、いわばシェールガスによってキューバを追い詰めたともいえる。

キューバでは二年前に法改正がなされ、米国在住でもキューバ生まれであれば、キューバで不動産を購入することが可能になったという。ちなみにキューバの国籍法は米国と同様に出生地主義を採っているが、二重国籍は認められていない。ところが、かつてキューバ国籍を持っていたものがキューバに入国するには、キューバの旅券を持っていなければならない。つまり、キューバで生まれた限り、キューバに戻るには「キューバ人」として戻るほかない。米国に移住したキューバ人は富裕者が多く、米国でも特別な待遇を受けたため、米国在住のキューバ人がキューバに家を買うケースも増えている。

ハバナの旧市街には薄暗い国営店舗に混じって、ベネトン、アディダス、ナイキなどが点々と進出している。とはいえ、これらの米国企業のうちいくつかは第三国経由ですでにある程度進出していたという。そもそもハバナに米国大使館が「開設」された、といわれるが、実際のところ、だいぶ前からある通商代表部の建物に名前を付け替えただけで、人員はほとんど変わっていないらしい。米国からの直行便は長い間なかったが、メキシコ経由などで入国することは可能で、細いながらも交流の道が完全に閉ざされていたわけではなかった。

今回同じ宿に泊まっていたロサンゼルス在住のコロンビア系米国人は、親類がキューバにいるそうで、2005年頃からたびたびキューバを訪れている。以前はメキシコシティ経由で、ドアトゥードアで二三時間かかっていたのが、今では直行便ができたおかげで九時間で来られるようになったという。この方はJPモルガン・チェイス銀行で働いていて、米国の銀行の動向にも詳しかった。「米国の銀行のカードがATMで使えなかった」と話したら、「大手銀行はまだ、リスクを怖れて、キューバとの取引には手を出していない。今取引をしているのは米国では二つの小規模な銀行だけだ」とのこと。

この方によれば、多くのキューバ系の友人は「なぜオバマは革命政権を延命するような譲歩ばかり行っているのか」と怒っている、という。なぜ今とどめを刺さないのか、というのが、ヒラリーに投票しなかったキューバ系米国人たちの本音なのだろう。ちなみにこの方もトランプ支持らしく、「ラテンアメリカからの不法移民があまりにも急激に増えていて、米国の最低賃金を押し下げている。腐敗したラテンアメリカ諸国の政権は反体制派や犯罪者を米国に送り出すことで安全弁としている。最近のヒスパニック系移民は英語を学ぼうとすらしない」等々と語っていた。1960年代に米国に来たキューバ系移民第一世代も、多くは財産があり、英語もできて、他のヒスパニック系移民に比べ、社会的に成功したケースが多い。

ガイド役のプロデューサーは国立大学でデザインの授業をしている。行く前に「何かほしいものはあるか?」と聞くと、「美術やデザインの本がほしい」という。コンテンポラリーアートの本を持っていくと、とても喜ばれた。来てみて事情が見えてきた。本屋に行っても新刊書はごくわずか。とりわけ外国の本は、外国に出かける友人に買ってきてもらうしかない、という感じらしい。もちろんAmazonで本が買えたりもしない。

キューバでは基本的に個人でインターネットを使えるようにはなっておらず、特定の公園やホテルでwifiの電波を飛ばしている。公営通信会社の店舗に行って延々と並べば、一時間1.5CUC(1.5ドル)のカードを一回に二枚まで購入することができる。だがこれはけっこう大変。スマートフォンやパソコンを使っている人がたくさんいる公園に行くと、たいてい入口あたりに座っている人が「プスッ、プスッ!」と小さな声で合図してきて、一枚3CUCくらいで購入できる。

週35時間労働で、月給は20CUC(20ドル、約2400円、以下便宜的に1USD=120JPYで計算)。外国人観光客としてハバナ市内のレストランで食事をすると、ディナー一回で使ってしまいかねない金額。信じられず、一度聞き返したが、これは平均的な給料らしい。ハバナでは、月給20ドルの人のための商品と月給数千ドルの人のための商品とが、一つの通りに、そして時には一つの店のなかに混在している。

キューバには二つの通貨制度がある。外貨と交換可能なCUC(キューバ兌換ペソ、1CUC=1USD)と、国内でしか通用しないCUP(キューバ人民ペソ)。ほぼ1USD=1CUCで、1CUC=25CUP。国営食堂などではCUPしか使えず、外国人観光客はCUPを持っていない限り利用できない。外国人でもCUCをCUPに両替することはできるが、そうしてしまうとふたたび外貨に交換することは基本的にできない。

キューバ人向けのレストランなら、50CUP(約240円)くらいあれば十分食事ができる。だが、ちょっとした贅沢品はほとんどCUC建てで、米国と大して物価は変わらない。半世紀以上にわたる米国による経済制裁もあり、とりわけ自国で作っていない製品は高くつく。キューバはサトウキビ中心の植民地的農業から転作を進めてきたが、今でもサトウキビは主要作物の一つで、定期的に食糧不足が発生してきた。キューバの人に「いつもどんなものを食べてるの?」と聞くと、よく「手に入るものを」という答えが返ってくる。

1993年の個人によるドル所持解禁や2011年の市場経済の部分的導入以降、以前よりも外国製品は入ってきているが、その恩恵を受けている人はそれほど多数ではないようだ。飲食店の一部民営化は2014年にはじまっていて、ハバナ市内には真新しいおしゃれなレストランも見かける。二重経済のなかで、その分国営スーパーに出回る物資が減り、「スーパーに行っても何も買えなくなった」という話も聞く。国営スーパーの前には毎朝行列ができている。

旧市街で道案内をしてくれた方が、「あそこが私の家で、その隣に観光客がたくさん来るアイスクリーム屋がある。おいしいらしいけど、高いから食べたことはない。すごく儲かってるらしくて、最近あそこだけきれいに建て替えたんだ」と話していた。そのアイスクリーム屋のアイスクリームは2CUC(約240円)だが、国営アイスクリーム屋なら10CUP(約48円)だったりする。

今回泊めていただいたのは民泊で、一泊35CUC(約4200円)だった。だがこれも、「ふつうの」月給をはるかに上回る金額になる。ある民泊の貸し手は、一ヶ月マンハッタンで滞在してきたという。今では海外渡航は自由化されているが、多くのキューバ市民にとっては、海外旅行はとても手が出せるものではない。

キューバ人からよく聞くのは、「キューバは安全だ」ということ。特に海外経験のある人はそう語る。実際、観光客が多い旧市街などを歩いていても、不安を感じたことは今のところない。治安の問題が少ないのは、格差が小さく、貧しくてもなんとか暮らしてはいける環境があったからだろう。だがほんの数年で、観光客相手の商売をしている人とそれ以外のあいだでこれだけの格差が生じていると思うと、ラウル・カストロが引退するという2018年までに何が起きるのか、なんだか勝手に気を揉んでしまう。

(つづく)

ハバナ滞在記(2) 米国とキューバ、二重の歴史と二重経済 へのコメントはまだありません
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