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NYUフランス演劇シンポジウム 2016年12月28日

2016/10/14

先週末、ニューヨーク大学でフランス演劇をめぐるシンポジウムがあった。はじめは相思相愛といった感じで穏やかなものだったが、リチャード・シェクナーの「今やパリは一地方都市になったのではないか」といった挑発的発言をきっかけに紛糾。

はじめて知ったが、シェクナーの博士論文はイヨネスコを扱ったもので、そのために1961年にパリに滞在していたという。シェクナーは、ニューヨークのここ数十年の演劇・パフォーマンスを主導するアーティストや劇場の名前を挙げて、近年のパリでこのようなアーティストや劇場が生まれてきたのか、パリは今でも最も「前衛的」なパフォーマンスが見られる都市として世界から注目されているのか、といった問いを発した。それにたいして会場のフランス人たちが猛然と反論。「今日のフランスにはパリだけではなく、地方にも重要な拠点があり、若い重要なアーティストもたくさん生まれている」、等々。なんだか急にお国自慢合戦になったみたいで、ちょっと面白かった。

その前のセッションで、「フランスにおける新たなパフォーマンス」として何人かの若手アーティストが紹介されたが、ニューヨークの文脈で見てみると、今一つその新しさがピンと来ない。私はそれぞれのアーティストの作品を知っているので、フランスでなぜ評価されているのかはわかる。だが、ニューヨークの演劇界あるいはパフォーマンスの状況の中で見てみると、評価基準がそもそも異なるのに気づかされる。

一方、フランスにいるときに、ニューヨークの最新若手アーティスト、といった形で紹介されたアーティストについても、正直同じような感想を抱いたことが少なくない。ニューヨークでは確かにある意味で先鋭的な試みが行われてはいるのだが、少なくともフランスやドイツと比べれば、それに多くの観客が集まっているとは言いがたい。商業演劇と実験的な演劇の溝があまりにも大きい。

それに対してフランスでは、すごくおおざっぱにいってみれば、そこそこに「先鋭的」な演劇に、かなり多くのお客さんが来る構造があり、それはすばらしいとは思う。このちがいの最大の理由は、公共体からどれだけ資金を得ているか、ということだろう。とりわけ1960年代以降、民間劇場から公共劇場へと「実験的」演劇の場が移行していったフランスでは、「どれだけ多くの市民が来るか、あらゆる社会階層の市民が来ているか」ということにかなり気を使う。今回紹介された「フランスにおける新たなパフォーマンス」が「新しい」のは、発表者によれば、とりわけ若年層の新たな観客層を取り込んだ、というところにある。

公共体から資金提供をされることがほとんどない米国では、観客層への配慮の重要性は比較的下位になっているように見える。「実験的」で「先鋭的」な試みをしているアーティストに、民間の財団や篤志家・サポーターからそれなりの資金が集まることもある。また、そのようなアーティストが同時に大学などで教えている場合もフランスよりはるかに多い。その米国の視点から見れば、フランスの「新たなパフォーマンス」は、「先鋭的」というよりも、むしろ観客迎合的に見えてしまうかも知れない。「新しい」か否か、というのはかなり文脈に依存している。つまり、「新しい」か否かは、今ここで、何が「主流」なのかということによって規定されざるをえない。

それはそれとして、では今日、どこに行けば一番面白いものが見られるのか、というのは、正直私にもよくわからない。かつてのリヴィング・シアターや太陽劇団に相当するような、世界的に影響を与える劇団やアーティストはどこに集まっているのか。

ケベック出身で今はパリ第三大学で教えているジョゼット・フェラルはシェクナーに対して「前衛という概念自体、今では意味を失っているのではないか」と反論していた。最近思うのは、演劇あるいはパフォーマンスにおいて重要なアーティストが出現するには、そのアーティスト、あるいはその人の理念を信じる集団がいなければならない、ということ。それを信じることができるような社会構造自体が失われてきたのではないか。

さらには、人々が集団として集まることによって社会を変革することができる、ということを信じることすらも難しくなってきたように思う。それは当然、いわゆるグローバリゼーションの帰結でもある。つまり、たとえば国くらいの単位で何か変えようとしても、それよりも大きな存在によって、どうせその変化が押しつぶされるのではないか、といった諦念が背景にはあるのではないか。多くの人が、うすうすとにせよ、国際政治のトリレンマ構造に気づきつつあるのではないか。(そもそもトリレンマという発想自体、まだ国民国家という選択肢がある、という希望的観測に基づいているともいえるが。)60年代と比べて、身のまわりにある情報があまりにも増えているということもある。その分、一つの理念、一人の信念を信じる、ということ、あるいはそれに大多数の人が賛同する、ということが難しくなっているのかもしれない。

ある国や都市に世界中から一番面白い人たちが集まってくる、ということはなくなったが、とはいえ「面白い人」自体がいなくなったわけではないとは思う。あちこちに行くのがかつてより容易になった分、いろいろな面白い人に出会うには、あちこちに足を運ばないといけなくなったのは確かだろう。

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